『巨人たちの星』 ジェイムズ・P・ホーガン

 

『星を継ぐもの』『ガニメデの優しい巨人』に続くシリーズ三作目。
『星を継ぐもの』で、相次いで見つかった、五万年前の死体(ルナリアン)、木星の衛星ガニメデの2500万年前の異星人宇宙船(ガニメアン)は、たくさんの謎をもたらした。科学の粋を究めて謎を解くことは、わたしたちの記憶にない遠い過去と、目の前に広がる未来とを、同時に開くことでもあった。
提示された証拠や、目の前に差し出された事実(小出しに提示されもの、みつかったもの、読み解いたもの)とを、あるべき場所に据えて、その隙間に広がった闇を、少しずつ推理して、こうであるはず、と埋めていく過程は、スリリングでおもしろかった。


二作目までは、驚くような邂逅・展開が重なってはいたものの、どちらかといえば、静の物語だったと思うのだ。
と思うのは、前二作に比べて、三作目『巨人たちの星』が、最初から最後まで、激しい動の物語で、こちらは、振り回されるようにして読んでいたからでもある。


いま、新しい事実が提示されて、曖昧だった部分は、パズルのピースが嵌まるように、丁寧に収まっていく。
一作目のプロローグの情景がよみがえってくる。あの言葉、この言葉の意味、あそこにいた二人の人物に、やっとちゃんと逢えたという思いと、長い旅をして、ここに帰ってきたのだという思いと。


読みながら、いくつか、立ち止まったところがあるが、ここには一つだけ。
「物事の表面を撫ぜるだけでなく、願望の眼鏡をとおして物を観るのでもなく、現実をあるがままに受け取ってその本質を捉える真の知識とは何でしょう?(中略)それは科学です!」
美しい言葉だ、と思った。
その一方で、対極にあるものとして、迷信、呪術、魔法、民話、宗教などを、「役にたたないもの」「冷静に見つめれば明らかに目に映る物を拒み続け」るためのもの、と位置付けている。目に見えないものを信じることが、科学の進歩を阻んでいる、と。
目に見えるものをしっかり見切ること。
目に見えないものを見えないまま信じること。
真逆だけれど、どちらかのために、どちらかを切り捨てていいものだろうか。
見えるものをしっかりと見る力と、見えないものを見えないまま信じる力とを、バランスよく育んでいけたらいいのだけれど。