『タフィー』 サラ・クロッサン

 

アリソンは、頬に大きなヤケドを負って、カリフォルニアの町ビュードに辿り着く。
アリソンを気分と暴力で支配していた父から逃れて。
だけど、当てにしていた人にはあえず、ほかに頼れる人も、お金もないし、今夜、泊まるところもない。
アリソンがこっそり忍び込んだ家には、認知症の老女マーラが一人で住んでいた。
マーラは、逃げようとするアリソンをタフィーと呼んで引き留める。(タフィーってだれだろう)


物語は詩で綴られる。すべてアリソンのモノローグだ。
彼女の今現在と、これまでのこと(父との暮らし)の振り返りとが、交互に続く。
好きなように娘を傷つけ、叩きのめし、「おまえのため、おまえのせい」という屁理屈を被せる父親。
それでも父の愛をもとめずにいられない彼女の気持ちを読んでいくのは辛い。
「父さんがおまえを愛せないのは、おまえのせいだ
 わかるな、
 アリー」
「こんなふうにやさしくされたのは久しぶりだったから
 父さんを愛してることを思い出した」
「ときどきわたしは忘れてしまった、父さんが父さんであることを
 だから、父さんを愛せていたのだ」


アリソンは、マーラの家に留まり(隠れ住み)、マーラの生活を手助けする。
最初はもちろん自分のためだった。マーラのものを盗みさえした。


虐待の被害者と、認知症の老人とが一緒に暮らす。なんだか不思議な巡り合わせ。と思ったが、二人、思わぬところで似た者同士であるようなのだ。というよりも、ときどき、相手の存在は自分自身の鏡のように思えてくる。


マーラのやっていることは滅茶苦茶、言っていることは支離滅裂。
それは、老女が過去に体験したことなのか、夢なのか、妄想なのか……わからないままに、若い時から持ち続けていたに違いない茶目っ気や軽やかさが、痩せた身体の奥から沁みだしてくるたび、一緒に踊りたくなる。笑いたくなる。
突然、気分が変わる。相手が何ものかわからなくなり、怒り出すので、油断はできない。
霧が晴れるように、思いがけずポロリ飛び出す鋭い指摘に、どきっとする。
押し寄せる悲しみや、諦めきれない諦めに沈みこんでいる時は、黙って寄り添うしかない。
そして、日々どんどん忘れていくことをとめられない。それはどんなに怖ろしいことか。
マーラという入れ物の中に閉じ込められたような、ほんとのマーラの姿が見えたり見えなかったり。


ときどき息子が様子を見に来る。ソーシャルワーカーは数日おきにくる。
マーラは独り暮らしだけれど、一人ではない……はず。
みんな彼女の事を心配して見守っているのだが、それが、マーラの身体の安全だけになっていたのかもしれない。その結果、「〜してはいけない」の連続になる。この小さな家の中に閉じ込めることになってしまう。
老人の表情が消えていく。
どうしたらよかったのだろう。介護は、何かを犠牲にしなければやっていけないじゃないか。誰の何を犠牲にする? 何と何と何を? 介護という言葉についても考えてしまう。


アリソンとマーラ。
社会からはみ出したような二人の、どきっとするほど危なくて、奇妙で、やさしい暮し。
誰にも知られずに続くアリソンとマーラの小さな暮しが、このまま、少しでも長く続けばいいのに、と願った。
すごいことじゃないだろうか。
周囲の手を借りなければ一日だって無事でいられない認知症の老女が、その日その日を生きている。それだけで、本人に自覚がなくても、ひとりの子どもを(それから、たぶん自分自身を)助けることになったとしたら。