カシタンカ アントン・P・チェーホフ ナターリャ・デェミードヴァ 絵 児島宏子 訳 未知谷 |
カシタンカは、仔ぎつねそっくりのかわいい犬。その名前は「栗」という意味だそうです。
ある雪の日、指物師である主人とはぐれて迷子になってしまう。
おなかをすかせて、凍えそうで鳴いているところを拾ってくれたのは新しい主人だった。
美しい表紙、ふんだんな挿画。優しい語り口は幼い子どもに聞かせるお話のようです。
だけど、実はなかなかに手ごわい物語でした。読み終えた私は、途方にくれています。
いったいどう読めばいいのか。
もとの主人からカシタンカは充分に食べさせられていなかったし、よくぶたれた。
(カシタンカのなかで、主人とは自分をぶつことを許されている人、との位置づけである)
主人にとってカシタンカの存在は「虫けら」と同じ。
子どもにもおもちゃにされて、屈辱的な暮らしをしていた。
決して幸福ではなかったはず。
新しい主人のもとで幸福に暮し、以前の生活も忘れていった・・・
さて、もし、カシタンカがもとの主人にかわいがられていたなら、または、たとえ殴られることはあっても愛情があったなら、
迷子になったとしても、新しい主人に出会ったとしても、この物語は、単純に嬉しい「行きて帰りし物語」と信じただろう。
もとの飼い主のもとに帰りつくまでのわくわくする冒険物語、と思っただろう。
だけど、カシタンカは、以前の暮らしをなつかしがっているわけではない。
かといって嘗ての暮らしが不幸だったと嘆いているわけでもない。
新しい主人に出会ってから、大切にしてもらって、たくさん食べさせてもらって・・・たぶん幸せなはずなんだけど
(確かに満ち足りている)
それがカシタンカにとって、よいことなのか悪いことなのか、まったくわかりませんでした。
幸せって言葉が、この時期の彼女にはどうにも似合わないような気がするのです。
「幸せ」とか「満足」より、相応しい言葉は「受け入れる」、かな。
たぶん、「自分というものはそういうふうにあるものなのだ」としか考えていない・・・
犬だからですか?
この子の愛らしさ、無邪気さ、けなげさ。その無邪気さやけなげさにいら立つのです。
こんなにけなげであってはいけない。
カシタンカ、カシタンカ、おまえの選択の価値は薄い。おまえの選択はおろかだ。
この物語のなかの大きな盛り上がり、ドラマがあるとしたら、あそこです。
満ち足りた暮らしのなかにも忍び込むものは忍び込んでくる。
それは「死」の恐怖。
寓話的であり絵のようでもある。動物たちの感じる恐怖は手にとるように伝わってくる。(なのに、深々と美しい)
そして、たぶん「死」の前では、世俗的な幸福感は一気に価値を失ってしまう。
この「死」が、物語のすべてのページに重たくのしかかっているようです。
・・・もしかしたら、もしかしたらね。カシタンカの生き方はだれよりも賢いのかもしれません。
死と生の大きな法則のなかで。
わたしはだんだんわからなくなります。
カシタンカという犬の姿を借りて、わたしは何を見させられたのだろう。
行きて帰りし物語です。でも、気持ちは複雑です。
本を閉じれば、表紙の犬が無邪気にこちらをみつめています。