『オールドレンズの神のもとで』 堀江敏幸

 

18の短編小説を読む。
それは、たいていは、昨日も今日も、どこかの町角で同じような光景が繰り広げられているに違いない、と思うような、そんな一瞬を切り取ったような小さな物語。
(そのうちの何編かは、ファンタジーっぽい不思議な(ちょっと怖い)場所の物語で、その場所なりの当たり前の一瞬を切り取った物語。)


特に立ち止まるほどのこともないようなありふれた光景と思うのだ。
だけど、『柳生但馬守宗矩』のなかに出てくる言葉、
「しかし結局のところ、大人はいつもあいだにあるはずの大切なものを飛ばして、自分の関心事しか見ないのだ」
のようなことは、どこでも頻繁に起こっているのだと思う。
飛ばされた「あいだにあるはずの大切なもの」を物語はあえて選り出してみせてくれる。
それは、『果樹園』で、
「レタス(犬の名前)を眺めているだけで、内側に蓄積されてきた破裂しそうななにかが、ゆっくりと鎮まっていくような気がする」
という感じであったり、
『徳さんのこと』で、
「叔父夫婦と話していると、両親といるときのように冗談を言ったり大声で笑ったりすることはない代わりに、いつもとちがう濃度の空気を吸っている気がしてなぜか心地よかった」
ということであったりする。


丸山さんがひっそり商う(?)『めぐらし屋』は、
「夕刻まで二時間寝かせてくれとか、電車の音が聞こえる部屋で仕事がしたいとか……」というような、一時的な、いわば隠れ家探しの周旋(?)屋だ。
隠れ家!
この短編集は、隠れ家集とも呼べるのではないか。
庭に大きなセンダンの樹のある『平たい船のある風景』も、栓抜きを頼むと案内される場所に驚いてしまう『リカ―ショップの夢』も、『コルソ・プラーチド』の書店の佇まいも、そのまま隠れ家という言葉がぴったり。
ことに『平たい船のある風景』の、家が船に変わる瞬間の感じが、すごく好きだけど、隠れ家って、きっとそういうことなんだと思う。どうってことのない当り前の景色のなかにある、その人だけが知っている別の空間。それは実際の空間である必要は必ずしもない。
そうしたら、物語というものが、そのまま隠れ家と呼べるのではないか。
現実からほんの一時、離れて潜みたくなる、懐の深い場所。


表題作『オールドレンズの神のもとで』は、ディストピア小説だ。
それは、不思議な一族の一人である「わたし」が語る、いつかの未来の物語なのだ。
ここには、昔はあったはずの「色」がない。なぜ「色」が消えてしまったのだろう。
生まれ落ちた時から色がない世界で暮らしていたら、それが普通になってしまうのだろう。
たいていの人は、この世に昔は色というものがあったことも知らないのだ。
一度失くしてしまったものはもどらないのだそうだ。
「わたし」は、嘗てあった「色」に相当するものを探したいと思っている。
それはなんなのだろう。
「ない」ということも気がつかずに、当たり前に暮らしているけれど、何かかけがえのないものを私たちはどこかに落としてきているのだろうか、そうだとしたら、それは何だろう……。
なぜ、この不思議な物語のタイトルが、表題に選ばれたのだろう。