『優しい語り手』 オルガ・トカルチュク

 

オルガ・トカルチュクの講演録。
2019年のノーベル賞受賞記念講演『優しい語り手』と、2013年の来日講演『「中欧の幻影(ファントム)は文学に映し出される』が収録されている。


タイトルは『優しい語り手』だけれど、この語りは、易しくはない。


世界は言葉でできている。起こったことも、語られなければ在ることをやめて、消えていくのだという。
「世界は死にかけているのに、わたしたちは見逃しています。世界が事物と出来事の集積になりつつあることを。生命のない空間になりつつあることを。」


わたしたちは、インターネットのおかげで、「絶え間なく補完され更新しつづける巨大な知の蓄積、創造」に、「地上のどこからでも手がとどく」ことで、かなった夢はたくさんある。
だけど、
「夢がかなうことは、しばしば落胆も意味します」
トカルチュクは言う。
「それは団結と普及と解放の代わりに、差異化と分断と、互いを受け入れない、あるいは互いに排他しあって敵対する、多様な物語というちいさな泡への引きこもりをもたらしました」


世界は、こんなに言葉があふれているのに、中身のない言葉がなんと多いことだろう。
溢れる言葉のなかで、どれが事実で、どれが真実なのかさえ、わからなくなっているのかもしれない。
フェイクニュースとフィクションの違いがわからなくなり、文学者が「あなたの書くものは事実ですか」と尋ねられたりする。


読んでいると、のどが渇いたような気持ちになる。渇きを癒すように、物語を読みたくなる。
「フィクションは常にある種の真実です」という、物語を。
「文学は自分以外の存在への、まさに優しさの上に建てられて」いるのだから。


「文学は、世界の具体性のなかに生きるわたしたちを支えようとする分野の一つです」
「出来事は事実です。でも経験は、説明しがたいべつのなにかなのです。それはもはや出来事ではなく、わたしたちの生をつくる材料です」


だけど、文学さえも、いまやあちこちで行き詰まりを起こしているというのだ。
一人称の語り手は、世界についての物語を私たち個人の物語に譲り渡してくれたけれど、普遍的にはなりえないのだという。寓話的な面が欠けているのだと。
また、文学を細かくジャンル分けすることは、「文学の商業化の結果」だと手厳しい。


トカルチュクは、新しい語り手「優しい語り手」を模索する。それは、一人称の語り手が語りえなかったことを語るはずだ。
「だからわたしは、語らなければならないと信じています。世界とは、わたしたちの眼前で絶えず再生しつづける、生きたひとつの全体であり、わたしたちはほんのちいさな、でも、それと同時に力強いその一部であることを語る、そういう物語を。」
文学について語ったものであるけれど、文学だけの話ではないと思うのだ。
だって、この世界は言葉でできているのだから。