『トロナお別れ事務所』 ソン・ヒョンジュ

 

誰かとの別れを決意する。決意はしたものの、さて、どうやって相手に切り出したものだろう。どうしたら、相手と、あまり波風たてずに別れることができるものだろう。別れって、案外難しいものだ。
どんな相手とも、どんな事情であっても、あとくされなく別れられるように、代行してくれる会社がある。
「トロナお別れ事務所」という。
イ・カウルは、まだ入社したばかりのお別れマネージャーだ。新人だけれど、最初から難しい案件を任されている。入社したとき、先輩マネージャーがいなかったからだ。これまでの先輩マネージャーたちは、たいてい入社一か月くらいで辞表を出してしまったのだという。会社がブラックだからだろうか。「別れ」が、人を思いもよらないくらいに疲弊させたのだろうか。(そもそも、あの社長の胡散臭さが……。)


イ・カウルが担当した案件のなかでは、活字中毒の青年の事が心に残っている。
青年が別れたいと思っているのは、実は彼の部屋を埋め尽くす、(心ときめく)本たちなのだ。
「アルコールよりも強いのが活字の誘惑だ」という言葉に、わかるわかる、と頷く読者はたくさんいるにちがいない(私も)
大切な本と別れを決意したものの、実行に踏み切れない依頼主のために、お別れマネージャーのカウルが提案した別れというのが……
わたしはあの独裁政権を思い浮かべてしまった。ほんとにそんなことをさせるの、するの? 寒々としたものが胸に広がるのだ。


そして、気がついた。
この事案だけではなくて、依頼人が別れたかったもの(手放したかったもの)は、依頼した案件ではなくて、もっと奥のほうにある別のものなのだ。
本人としては、ほんとうは、あまり見たくないところなのだろうけれど、ちゃんと見ないと、何度も同じような「お別れ」を繰り返しそうな気がする。
私の別れたいもの、捨て去りたいものは何かなあ。本当にそれだけを捨てれば、すむことなのかなあ。考えてしまった。


物語は終盤、にわかに緊張感を帯びる。ほかに方法があるのではないか、とイライラしたりするが……物語の登場人物たちは、ハラハラする読者よりもずっと肝が据わっていた。


お別れをコーディネイトするマネージャーは、人の別れに立ち会い、別れる人や、別れを告げられる人の痛みに寄り添い、躓き悩みながら、実は、自分の「別れ」と向き合っていたのかもしれない。
もしかしたら、いちばん大きな顧客は自分自身だったのかもしれないね。