愛についてのデッサン―佐古啓介の旅

愛についてのデッサン―佐古啓介の旅 (大人の本棚)愛についてのデッサン―佐古啓介の旅 (大人の本棚)
野呂邦暢
みすず書房


>「本を探すだけが古本屋の仕事じゃない。人間っていつも失った何かを探しながら生きているような気がする。そう思わないか、友子」
主人公佐古啓介は、古本屋の店主。依頼があれば、本も探すし、買取もする。けれども探すのは、本ばかりじゃない。そして、先の台詞になる・・・
佐古啓介の『探す』旅(動かない旅もある)の物語6篇。


本をさがす、ということは、その本を求める人の特別の物語がある。
いえ、本に限らず、どんなものにも、およそ人が作り出したものならば、そこになにがしかの物語があるはずです。
その物語を啓介はさがす。
でも、執拗に、というわけではない。
探される物や人が、探して欲しくない、と願うならば深追いしない。探し物が見つからなければ物語にならないだろうというわけではない。
探さないことも物語であり、探し出されるよりもなお余韻を残した独特の物語になる場合もある。


どの短編にも、必ずといっていいほど詩集や詩篇が表れる。その詩がどれも美しく味わい深い・・・けれども意味がつかめない。
詩ってこんなものかな、と思ったりもします。
でも、物語を読み終えて、改めてこの詩句にもどったときに、かならず、ああ、そうだったのか、と思う。
詩が静かに輝くとき。
そう思って読めば、この本は詩集なのかもしれない、物語の顔をした詩集・・・そんな気もするのです。


印象的なのは表題作『愛についてのデッサン』
静かな物語(どの物語も静かなのですが)、それが突然、思いがけない場面に変わる。
「え?」と思って慌ててページをさかのぼる。やっぱり静か。なんの予兆もない。
そして、その「え?」のあと、「え?」と驚いたのが、なんだか不謹慎なような気がして、そっとあたりを見回してみる。
なんなのだろうなあ。どうしてなんだろうなあ。人の不思議さ。
言葉にしたこと、しなかったこと、したくなかったこと、わかってほしいこと、ほしくないこと・・・
そういうものをそのまま、そっとしておく。
それでも、残りの人生を本を読んで過ごしたい、と妻と別れた男の午前三時を思う。
本当とは思えないなあ。すごく淋しい。


主人公啓介は26歳。父を喪ってまだ日が浅い若者です。
大学を出て、出版社に就職したものの、その仕事は本好きな啓介にとって必ずしも満足できるものではなかったのです。
父の家業である古本屋を継ぐことが、啓介の望みでした。
本が好き、本に関わって生きる、と一言で言ってしまえば、それまでですが、いろいろな関わり方があるのだ、と思います。
本が好きならなおさら、大好きな本の傍にいながら、それが自分の望む本との関わり方と程遠い場合、かなり辛いのかもしれません。
本当に価値のある本(手に入りにくい、とか豪華な本というだけではなくて)、ある人にとってのかけがえのない本を丁寧に探し出す、
という本との関わりかたもあるのかもしれません。


啓介のもの探しの旅は、実は自分自身を探す旅ではなかったか、と最後まできて思い至るのです。
ヘミングウェイの言葉として、「長編小説の終わり方は、結婚か死か二つしかない。
文学の主題は愛と別れである」と書いている。この本もそうかもしれない。
愛と別れの物語。静かで少し淋しくて・・・でも最後が「別れ」じゃなくてよかった。