タイガーズ・ワイフ

タイガーズ・ワイフ (新潮クレスト・ブックス)

タイガーズ・ワイフ (新潮クレスト・ブックス)


バルカン半島の紛争の絶えない二つの国が舞台です。今はたまたま休戦状態(?)にある。
医師であるナタリアは幼なじみでもある同僚とともに、国境にいる。
彼女たちは、戦争で孤児になった子どもたちに予防接種をするために、国境の向こうの孤児院に向かっている。
そこで、ナタリアが受けたのは、同じく医師である祖父が亡くなったという知らせ。
祖父は重い病気を患っていたが、それを知っているのは本人と孫のナタリアだけだった。
祖父は病気を家族には内緒にしたまま、旅先の、だれも聞いたことのない小さな町で息をひきとる。
なぜ、祖父はそんなところに行ったのか、誰にも行き先を告げずに・・・。


ナタリアは、愛する祖父の思い出をたどる。
彼が語った昔の物語や、彼が大切にしていたもの、彼の生い立ち・・・
ゆらゆら揺れる沢山の物語。
本当の話も、おとぎ話めいた話も、信じがたい話も、苦々しい話も、怖ろしい話も、悲しい話も、美しい話も・・・


一人の男の人生への孫による思慕と敬意は、
男が生きた(そして孫が生きる)この国の忌むべき現状と、限りない祖国愛のようなものに繋がっていく。


戦火の中の残酷な話は、何度も、形を変えて、細切れに現れます。
中でも忘れられないのが、動物園の、自分の体を食らう虎の話。
戦争は、まるでこの虎のようではないか。
国によって命じられて人を殺す、そしてそれは、自分自身が殺されるということ。
自分で自分を食らっているようなものではないか、
無心に食らう虎の姿をいたたまれない気持ちで読んでいました。


虎(上記の虎とは別の虎)は、美しい幻のように、物語の中を縦横に跳梁し、立ち止まって静かにこちらをみつめます。
「虎の嫁」と呼ばれた少女と虎との不思議な距離感の、はっきりと書かれない部分を想像で埋める。
それは不思議な美しいファンタジーのようでもあり、透明感のある静謐な絵のようでもあります。
そして、少年は、虎に『ジャングル・ブック』の虎シア・カーンを見る。
ジャングルブック』のシア・カーンは怖ろしい殺人者だと思っていたが、
この本の中では、幼い少年(ナタリアの祖父)はシア・カーンに畏怖を感じている。畏れつつ敬う。憧れの存在である。
…わたしには、虎という存在が、作者にとっての祖国のように思えてならない。
幼い日に後にした祖国。二度と戻らない祖国。紛争の絶えない祖国。危険で、とても美しい、とても懐かしい祖国。
少年は作者自身。
ろうあの少女は、こうありたかった自分…そんな気がしてならないのです。
(ナタリアの祖父が絶えず胸ポケットに入れて持ち歩いていた『ジャングルブック』、見てみたかった。)


死ぬことのできない男が、ナタリアの祖父の人生の節目節目に現れる。
彼の存在は、少しばかりユーモラスで可笑しい。だけど、やっぱり見たくない気持ちの悪いものなのだ。
この男が、ひょうひょうと、祖父の人生の隙間を渡っているのが、不気味である。
不気味でありながら、会えばなんとなく懐かしい気がするのはなぜなんだろう。
私もいつか会うのだろうか。彼だ、と知らずに。あるいは、すでに何度もすれちがっているのかもしれない。
最後に現れた光景の意外さに、あっと驚きながら、心のどこかでちっとも驚いてなんかいない、と思っている。
そうだったのか、と思いながら、そうあるべきものなのだろう、と平和のうちに受け入れているのです。
死と生とが混ざり合って、ただ静かな余韻をしみじみと味わう。


この国には、「鎮魂の40日」という風習がある。
人は亡くなってから40日間この世にとどまり、それから天国に召されるのだそうだ。(日本の四十九日に似ている?)
生きて残された人にとっては、死者との別れの期間でもあるのだろう。
この本は、鎮魂の物語です。この物語を読むことは、鎮魂の旅をすることでした。
ナタリアの愛する祖父と、愛する祖国と、そして、消えていった物語のなかのあの人たちのために・・・