『ポーランドのボクサー』 エドゥアルド・ハルフォン

ポーランドのボクサー (エクス・リブリス)

ポーランドのボクサー (エクス・リブリス)


語り手「わたし」ことハルフォンは、グァテマラのユダヤ人作家。彼は物語のなかで、ずっと探している。
祖父の記憶の中、文学のなか、国から国、町から町。言葉から言葉。そうして、彼が探しているのは、なんなのだろう。


彼はユダヤ人でありながら、どんな派閥(?)のユダヤ人にも、属すことができない。
それから、ジプシーのピアニスト。彼は、ジプシーでもセルビア人でもありながら、どちらにも受け入れられることがない。
どちらも、迫害の記憶を持ち、差別を受ける民族の、さらにそこからはみ出して、居場所を失った人だ。マイノリティのなかのマイノリティ。
ユダヤ人、ジプシーという言葉は、民族として、あまりにインパクトがありすぎて、そのなかで、ほかのだれでもない「個人」であろうとすることは、難しそうだと思う。
かといって、ユダヤ人・ジプシーであることは、彼の奥深くに張った根っこのようなもので、それを引き抜いたら、個人としての自身も存在することはできないのだろう。


祖父の二の腕で朽ちていく五桁の数字。
暗闇でスパ―リングするボクサー。
つま先立ちのピルエットをするジプシー。
低く聞こえてくる即興のピアノ曲・・・。
物語は、切れ切れの情景で、物語の中には、符丁のようないくつかの言葉が仕込まれている。その言葉があらわれるとき、物語と物語とがゆるやかに繋がっていることを意識する・・・


短編集だと思いながら、手にとった本だけれど、読んでいるうちに、これは連作短編集だ、と思い始める。
連作短編集、と思って読んでいると、もしかしたら、これは、ひとつの長編の物語では、と思えてくる。
しかし、最後に、訳者解説を読んで、この本がどういうものかを知り、あっと驚いた。
作者と訳者は、メールで打ち合わせをしたそうだ。作者は、いう。「私たち流の『石蹴り遊び』をやろう」
この言葉の意味を知ったとき、この本は、ぱっと色を変えたような気がした。
作中、かのピアニストが、演奏会で、プログラムにはないリストの曲を突如弾きはじめたこと、音楽に境界はないという彼の持論などを、思いだして、重ねている(『エピストロフィー』)
この本は、訳者解説まで含めて、読み手までも含めて、ひとつの作品になる。