通訳ダニエル・シュタイン(上) 通訳ダニエル・シュタイン(下) リュドミラ・ウリツカヤ 前田和泉 訳 新潮クレスト・ブックス ★ |
>・・・そしてこの本は小説ではなくコラージュです。私は自分の人生や他の人たちの人生からハサミで断片んを切り取り、「糊づけもせずに」――ここで改行!――「日々の切れはしから成る生きた物語」を張り合わせて作っているのです・・・なんという途方もないコラージュだろう。
読み始めたとき、わたしは正直とまどいました。まるで脈絡も無く、時系列も関係なく、次々に表れる文献、文献、文献。
手紙、日記、手記、掲示物のコピー、インタビューテープなどなど・・・そして、次々に表れてくる多くの名前名前名前・・・
いつ書かれたものなのか、この人たちはどこでどう繋がっていくのか、何度も前にもどって読み直しました。
(それでも、きっとうっかり読み落としているところがあるだろうし、気がつかずに読み流したところがあるだろう、と読了した今も気になる。)
とっかえひっかえ現れる多くの人々の手記や手紙から、一人の人が浮かび上がる。
そして、そのひとりの人から逆に多くの人々がまた浮かび上がってくる。
その人々を中心として、民族や宗教や政治歴史の思惑や本音と建前、嘘などが洗いざらい浮かび上がり、
そのはるか高みにかわることない理想が見え隠れする。
大きな宇宙のような物語。
ダニエル・シュタインという人。
困難な、という言葉が甘く聞こえるほどの人生の中、いつ気がふれてもおかしくないような選択を常に迫られつつ、
その人生を「奇跡により生かされた人生」だから、と他者のために使った。
そしてそれは理解を阻まれた苦悩の人生でもあったはずなのに、常に勇敢だった。しかも穏やかでユーモアに満ちていた。
>ウリツカヤは『司祭ダニエル・シュタイン』ではなく、あえて『通訳ダニエルシュタイン』と題した。それは、「通訳」という仕事が本質的に人と人との「理解」を助けるためのものであるからに他ならない。 (訳者あとがき)「理解」なんてことがありうるのだろうか。
だけど、もし本当にダニエルのように「理解」できたら、世界はほんとうにもっと単純で美しくなるだろうに。
なんてシンプルなんだろう。
そのシンプルなことができない。
シンプルだからこそできない。
個人から団体、民族、国家にいたるまで。
>神様の立場になって考えてみるといい。その同じ神様に、ユダヤ人はアラブ人が滅ぶように祈り、アラブ人はユダヤ人が滅ぶように祈ってるんだ。高邁な理想を言うのは簡単です。
でも、これは物語になるだろうか・・・ふつう。
間違えたら地に足の着かない宙ブラリンの物語になってしまうだろうに。
理想が高ければ高いほど、口先ばかりになってしまって、内容がなくなってしまって、
大仰な言葉だけが残ることになってしまいかねないのではないでしょうか。
理想を描くだけで精一杯なのではないだろうか。
それをあえて物語にする、というだけでもすごいこと。伝記ではなくて物語。ただもう誠実に描ききってくれたことに感謝です。
無私、という言葉が浮かび上がってくる。
これもまたシンプルであるが故にできる人はそういないはずだし、まともに物語にもならないはずの言葉なのですが・・・
堂々と無私の人が現れる。うん、堂々と。そして、すごくさりげなく。控えめに。と、同時に驚くほどの頑固さと忍耐力をもって。
彼を中心にして、大勢の群像はさまざまな思いをめぐらし、苦しみ抜いて、それぞれの人生を誠実に歩んでいく。
歩みつつ、どこかでつながっていく。
実際に会ったことも無い人たちも、名前さえ知らずに、その人と繋がっていることさえも知らずに、繋がっていく。
ダニエル・シュタインという稀有の「通訳」の言葉を通して。
稀有の通訳。
それはあまりにささやかで、あまりにやさしく、あまりにさりげないひとりの人。
「ゲシュタポで通訳をしながらユダヤ人たちを脱走させた男は、戦後カトリック神父となってイスラエルに渡った・・・」
わたしは、本の裏の紹介文のこの部分に惹かれてこの本を手に取ったのでした。
でも、ほんとはこういう経歴をいっそすべて伏せてしまったほうがいいくらい。
彼の経歴はあまりに偉大すぎます。だけど、彼という人の大きさを語るとき、この経歴を最初に語ることはたぶん邪魔になります。
僧服よりも古いセーターを着て、古いスクーターに乗って駆け回っていた小さな男。穏やかで、常にユーモアを忘れず。
それだけできっと充分。だって、どんな入れ物であるにしても(どんな偉大な経歴でさえ)、彼の中にある大きな光を語ることはできない。
逆にどんなに小さな入れ物にも入れることのできる光でもあった、と思うのです。
ダニエルの理想は、彼ひとりで達成できるものではなかったはず。
なのに、だれにも引き継がれない。彼なきあとは、なにもかも(彼の為したことさえも)跡形も無く消えてしまったのです。
彼の生き方は彼が属する世界すべてから否定されました。死後にまで。
この世界の問題のややこしさ、根深さをここまで来て改めて突きつけられるのですが、不思議に落胆することはありませんでした。
彼は、自分の生き方を誰かに受け入れて欲しいと思ったのだろうか。誰かに引き継いでほしいと思ったのだろうか。
彼の存在は大海に投げいれた小さな石ころだったのかもしれない。それは彼自身が一番よく知っていた。
そしてあえて小さな石ころであろうとしたのかもしれない。
この世のなにもかもを包み込むような大きな何かを感じています。