『子供時代』 リュドミラ・ウリツカヤ

子供時代 (新潮クレスト・ブックス)

子供時代 (新潮クレスト・ブックス)


少女ドゥーシャの穴の開いたポケットの中身。ワーリカが見居るロジオンのにぐるまの品物。触らせてもらえないジーナの兄さんの時計。昔話の絵本のようなセリョージャのひいおじいさんの家の匂い。コーリカのおばあさんの屋根裏部屋のガラクタの山・・・
私には、なじみのない品物、場所。たとえば、サモワールにつける煙突など想像もできないし。それなのに、懐かしい気持になる。どれも、とてもよく知っているような気がして。
その情景や匂いから、子どものころの私自身が魅せられ眺めいった別の場所が蘇ってくる。すっかり忘れていたけれど。
どれも一円の価値もないガラクタ。けれども「その子ども」が、目を注いだその一瞬、そのものは、場所は、にわかに不思議な光を放つ。
その一瞬の宝は、何にもまさる真実だ。だけど、たいてい、時とともに、そうしたことは忘れてしまうのだろう。ただ、壊れかけた埃っぽい現実だけが残る。
忘れない人もいる。ウリツカヤみたいに。
そして、こういうことを忘れない人は、その子どもたちが表情を変える一瞬の、他の場面をも忘れないのだ――


この小さな物語たちから受け取ったものをどのように書いたらいいのだろう。
物語を紹介するのは簡単で、実はとても難しい。
どの物語も、美しい話なのだ。よい話なのだ。けれども、そうやって、「よい話」と言ったとたんに、大きな間違いを犯しているような気がしてしまう。この物語集の一番よいところは、水面からもっとも遠いところにあるのではないか(水面も当然美しいのだけれど)という気がするのだけれど、それをうまく伝えることが、わたしにはできそうにない。

>そのどれもが、ただの心温まるお話というのではなく、味気ない「日常性」を突き抜け永遠の「聖性」と「祝祭性」をまとって光り輝いているかのような物語である。
訳者あとがきのこの言葉に、これ以上、いったいどんな言葉をつけたしたらいいのだろう。


物語の主人公たちは、子供時代を、遠いところから振り返る。子ども時代はもうもどってはこない。すでに失われた物語である。
子供の傍らにいるのは、多くは老人である。この物語が失われた物語、と感じる理由には、それもある。
はっとする場面もあるし、静かな余韻に追いすがって物語から出たくないと思わせられる作品もある。
子どもの目線で語られる文章は、事実だけを告げる。
思い出の中のこの場面を、物語として遺すことはたしかに祝祭のようだ・・・
物語は祝福され、それを読む読者もまた間接的に祝福されている、そんな気がする。


スターリンの時代。中庭に面したアパート。それぞれの「事情」による親の不在。貧しい暮らし。
ここにある物語はどれも暗がりにともされた灯りのようだ。
小さな小さな情景で、あっという間に忘れてしまっても不思議はないのに、忘れたくない、ただ黙ってポケットに入れて歩きたい。
ときどきそっと取り出して、ひとりでじっと眺めいって居たい.
立ち止まり、しゃがみこんだとき、何もせずに、ただそこにいてほしいもの、いてくれると信じられるもの。
そういう宝物が六つ。いや、六つじゃない、七つ。
七つめは、ウラジーミル・リュバロフによる味わい深い絵(厳密には挿画ではない)、ことにカバー裏に書かれた「らくがき」


そうして、遠くを眺める。感じる。
この七つの物語ははるか先に立っている「ソーネチカ」や「ダニエル・シュタイン」の背中につながっている。きっときっと。