『緑の天幕』 リュドミラ・ウリツカヤ

 

スターリンの死の前後から始まる二十世紀後半のソ連、とりわけモスクワの町を、この時代を生き抜いた人々を追うことで描き出す。あるいは、この時代のソ連を背景に、様々な生き方(生かされ方も含めて)をした一人ひとりの人生を辿る。
長い長い物語で、世代をまたぎ、多くの人生が錯綜する物語で、いったい何をどのようにとりあげて感想をまとめたらよいのか、と考えてしまう。


イリヤサーニャ、ミーハは、小学校時代に出会った。後から思えば運命的な出会いだったわけだけれど、この三人が、スクール・カーストのピラミッドの最下層だったことは興味深い。底辺で発している光に、クラスメイトたちは誰も気がつかなかったのか。あるいは、気づくまいと気をつけていたのだろうか。
なぜそうなったかと言えば……底辺の彼らは、大勢に混ざり合うには、あまりに、個性的で、自身の生き方に誠実だったからではないだろうか。生涯を通じて。
個性も誠実さも、逮捕、収容所、ラーゲリなどという言葉をちらつかせ、「密告」は市民の義務であるとされていた社会には、命とりにもなる。


どうして、こんなにも生きることが苦しいのだろう。違う時代だったら、どんな人生を送っただろう、とふと考えてしまう。
「みんなソヴィエト政権に殺されたのよ」
「問題はソヴィエト政権だけにあるわけじゃない。どんな政権でも人は死ぬものなんだ」
登場人物一人ひとりに、心を寄せるとき、私も登場人物も、どこの国、いつの時代、という垣根がなくなる。


彼らの言葉は、一つには文学だ。(それから音楽も)
それは、難しいけれど、世界の共通語にもなるはず。
すぐれた文学に国境がないように、彼らが見上げるものを、わたしもここで同じように見上げることができる、と思うのだ。(膨大なロシアの文学者の名前や引用の詩に覚えがなくても)
彼らに文学の世界を開いてみせた恩師シェンゲリ先生の
「文学っていうのは、人間が生き延び、時代と和解するのを助けてくれる唯一のものなんです」
という言葉、この物語を読んでいる間、ずっと忘れられずにいた。
無理しているかもしれないけれど……こうした文学との出会いがあり、文学をともにしながらの人生であったことを思えば、どんなに苦しい日々が待っていたとしても、その人の人生を不幸と決めつけることはできないのではないか。(そう思いたい)
その先にどんな道が待っていたにしても、それでも、文学と出会えてよかった、と。

 

タイトルになった『緑の天幕』というのは、登場人物の一人が臨終の手前で見た夢なのだ。
大きな大きな天幕の前にたくさんの人が順番を待って並んでいる。
それは、この物語のなかの人びと(顔と名前が一致する人もあれば、そうでない人も)の死後の行列だ。
自分を助けあげてくれた恩人や、助け合った仲間や、愛した人。袖を分かった人や最後まで分かり合えなかった人、……みんなここにいる。
ここに国も時代もない。
味方になり敵になりした人々も、この天幕の手前で等しく並んでいる。