『陽気なお葬式』 リュドミラ・ウリツカヤ

陽気なお葬式 (新潮クレスト・ブックス)

陽気なお葬式 (新潮クレスト・ブックス)


猛暑のニューヨークの片隅で、アーリクは死にかけている。亡命ロシア人で、画家である男が。
彼のまわりには、多くの友人たちが集まり、見守っている。
この友人たち――ことに女たちの顔ぶれときたら驚く。
妻、愛人、昔の恋人・・・など、普通なら同席を避けたいだろうと思うような面々が一堂に集結しているのだ。
その錚々たるメンバー(死にゆくアーリクも、もちろん含む)の奏でる狂想曲は、悲しくも、とぼけた可笑し味に満ちている。そして、とにかくもう、蒸し暑い。


しかし、なぜ、こんなに多彩な(?)顔が次々と集まってくるのだろう。アーリクの元恋人のイリーナが「あの人のどこがそんなに特別なのだろう」と考える場面と重ねて、そう思う。
彼が「よい人」だったから?
一見ハチャメチャだけれど、確かによい人。もっといえば、みんなみんなよい人なのだ。
しかし、よい人ばかり出てくる作品だったら、ほかにもある。
ウリツカヤの「よい人」はちょっと違うような気がする。まさに「特別」なのだと思う。


以前読んだ『子供時代』(感想)の訳者あとがきに「味気ない「日常性」を突き抜け永遠の「聖性」と「祝祭性」をまとって光り輝いているかのような物語」という言葉があった。
聖性という言葉に、納得した。アーリクにも言える。妻、愛人・・・女たちに囲まれて何をいわんか、なのだけれど、そう感じるのだもの。
そして、医師フィーマを通して語られる「苦痛」のとらえかた、だ。
「この国(アメリカ)は苦痛を嫌悪していた」にはじまる一連のくだりのなかの「苦痛が存在しなくては崩壊してしまう大事なものを自分のなかに抱え込んでいるように感じる」ということ。
アーリクも、彼の友人たちも、生半可ではない苦痛をともとして生きてきた人々、生きてこの地に辿りついた人々だった。
その苦しみの記憶が、各人のなかに沈み、聖なるものに変わったのだろうか、そんなことを思う。
ほんとうはわからない。わからないけれど、ずっと何だろう、と思いながら、惹かれ、忘れられずにいる「よい」もの。「聖性」、「祝祭性」・・・


葬式とはどういう儀式だろうか。いろいろあるだろう、と思う。
遺されたものが死者から贈り物を受け取ることもある、のか。
何もかもがハチャメチャだ、やれやれ。しかし、それを「ハチャメチャ」と言えることが嬉しくなる。何かが伝染したかな? 
そうして、別のものに形を変え、ひたひたと満ちてくる。
とても美しいものが、別の名の包み紙にくるまれている。中身が大事、というだけではなく、包み紙もとても大切だ、と思える。


ラストでのある会話。
ロシアについて「アーリクが言ってたんだ。もしあの国に秩序なんかあったら、ぜんぜん違う国になっちゃうって」「それなら心配しなくていいわ。あの国には絶対に、秩序なんて訪れないから」
笑い話で、皮肉で、祖国への思慕が滲むような、この言葉。
そのまま故人と残された人々の関係のようであり、葬儀のようでもある。
絶妙なカクテルみたいにも思う。