『モスクワの伯爵』 エイモア・トールズ

 

1917年、ロシアでは二度の革命がおこり、帝政時代は終わり、ボリシェヴィキ政権によるソビエト連邦が誕生した。
逮捕を恐れた貴族たちが次々亡命するなかで、モスクワに留まったロストフ伯爵は、1922年、裁判にかけられる。そして、銃殺は免れたものの、メトロポールホテルの屋根裏部屋に生涯にわたって軟禁されることとなった。
ロストフ伯爵32歳である。


ただ一つの場所(ホテル)の物語、年代順に32年間を辿る物語である。
ページ数にして六百ページあまりだが、物語は単調でも窮屈でもない。悲惨でさえない。
むしろ、ホテルという一つの建物が、途方もない広がりを見せるということ、生きもののように魅力的だということに驚く。
メトロポールホテルは、モスクワ一の伝統を誇るホテルであり、従業員たちは、政権がどのように変わろうと、頑固なくらいに誇り高きプロたちだ。読みながら、その一人ひとりと知り合い、親交を深めていく。それはなんと楽しかっただろう。
さらに、ここに出入りする客たちの多彩なこと。
政治家たちの会合があり、世界のジャーナリストが集まり、芸術家が逢引する。長逗留の家族や探検好きな子どもがいる。
外の社会は激しく動き、昨日の英雄は今日粛清され、共に理想を語った同志は明日はシベリア送りになる。
皮肉なことに、帝政時代の貴族と、ボリシェビキ政権の権力者たちが(身に着けるものこそ違うが)宴会場ではそっくりに見えた逸話は印象に残る。
ホテルは、モスクワ市街の縮図であり、外を吹く嵐が渦中よりもよく見える窓でもあったのだ。


そして、肝心の伯爵が、この刑をどのように受け止めたかと言えば……
長い階段を上って、はじめて屋根裏の自室に辿り着いた時、彼は、自らの境遇の主人となることを決めたのだ。
伯爵は快活な紳士だった。
彼の過ごした32年間を、私は心から楽しんだ。
彼が出会う人たちと私も出会い、寓話のような物語を聞き、とんでもない預かりものにともにうろたえ、喜び、そして、ときどき、単なるおとぎ話だと思ったものが、実は、小出しに出されるあれこれの伏線だったことを知る。


物語の間に散らばる美しいものたちを数えることも楽しかった。
伯爵が愛する故郷の思い出。りんごの花咲くニジノ・ノブゴロドの牧歌的な風景と愛おしい人々のこと。
ここはナルニア国かと思うようなクローゼットの奥の秘密。美しく、細工は流々の祖母の机、父の時計、妹の鋏。
それから、ホテルを我が物顔でのし歩く片目の猫。


最後のほうで、伯爵が旅だつ人に言って聞かせた助言が二つある。
一つは、「自分の境遇の主人とならなければ、その人間は一生境遇の奴隷になるということ」
ふたつめは「叡智のもっとも確かなしるしは、常に朗らかであること」
だった。
この二つの助言は、32年間の伯爵自身の信条だっただろう。
屋根裏住まいの伯爵が、まるで御殿の殿様のように優雅で自由にみえたことも、「同志」と呼ばれるよりも、敬意をこめて「閣下」と呼ばれることの方が多かったことも、そういうわけだったのだ、と思う。


物語が終わるのは彼が64歳になった1954年。
最後の年に(あるいはこの年までに)何が起こったのか。
この物語は最後の最後まで楽しませてくれる。


「……これらが便利さの最たるものだよ……かつてはこのすべてを味わった。だが結局のところ、いちばん大事なのは不便のほうだった」