『スティル・ライフ』 池澤夏樹

 

 

スティル・ライフ』と『ヤー・チャイカ』の二編が収録されている。


『スティル‐ライフ』の、手の中のグラスの水の中に、見えるかもしれないチェレンコフ光。(宇宙から降ってくる微粒子が水の原子核と衝突して出る光だそうで、見られるとしたら一万年に一度くらいだそうです)
『ヤー・チャイカ』の、マンションの五階に頭が届く恐竜に、ベランダの干し草を食べさせること、鼻筋をなぜてやること。
そういうことを、「そう、もしかしたらね」と思っていられたら、胸に宝物をひとつ持っているようなものだろうと思う。
その一方で、『スティル・ライフ』の佐々井の、緻密な計算に満ちた三か月にいたる事情や、『ヤー・チャイカ』のタカツの仕事の中身など、突然夢から冷たい現実に呼び戻されたようでハッとする。


それ(夢と硬質な現実と)は、長い天秤棒の、遠く離れた端と端にあるものと思う。だけど、そうなのかな。もしかしたら、それらは同じ性質のものになることがあるかもしれない、と読んでいるうちに思えてくる。
向こうの端とこちらの端を出会わせるための特別の手だてを、彼らはきっと持っている……
それは、たとえば、こういうことなんじゃないか。


スティル・ライフ』のなかで、「ぼく」は、音もなく降りつづく雪を見ているうちに、
「雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っていく」ような気がしてくる。
また、『ヤー・チャイカ』では、タカツが、地球を四十八周する宇宙飛行士テレシコワの眼に映る地球に思いを馳せている。
「地球は彼女の軌道という多彩な糸で四十八回かがられた手毬になった」


なにかのきっかけで、見えているもの、あたりまえだと思っていたものが、ふと違う姿で目のまえにあらわれることがある。それは(事実は事実として)何か突き抜けたところにあるものの一片にちょっとだけ触れたのではないか。
そういう感覚は、まったく異質だと思っていたもの、遠く離れたところにあると思っていたものを、近づけることができるのかもしれない。すっと重なるような近さに。
『ヤ―チャイカ』に出てきた「二重の人間」という言葉も、そういうことなのかな、と思ったりしている。