『とんぼの目玉――言の葉紀行』 長谷川摂子

とんぼの目玉―言の葉紀行

とんぼの目玉―言の葉紀行


雑誌『未来』に2006年十月から2008年四月まで連載した、主に言葉についてのエッセイ十九篇に、書きおおろし三篇を加えてまとめた一冊です。


外国語習得の話から始まって、方言、翻訳、過去から現代へと変化していく言葉や、消えていく言葉、などなど、この本はまさに、様々な言葉の欠片の「イカダ組み」なのだ。(第一章に、外国語を習得することをイカダ組みに例えた部分があったので)
印象に残ったところはたくさんたくさんあるのだけれど、一部だけ・・・


八人で共訳した『美術の物語』についての話は楽しかった。
翻訳作業の大変そうなこと、楽しそうなこと。
その『美術の物語』の著者ゴンブリッチは、ある対話のなかで、
自分がユダヤ人であることを否定はしないが、
「民族や宗教を強調されるのはかなわない。ナショナリズムや排外主義はどんな形であれ、不幸な脱線なのだから」と語ったそうだ。
そこから、一冊の本を読む、ということをわたしは思う。
たとえば、ある本を読むとき、その背後の情報として、関係する国、民族、宗教をほんのちょっとでも知っていたいと思うではないか(それは、作者や登場人物の出自への敬意でもあって)
でも、読み終えたときには、ほとんどの場合、最初に気にした民族や宗教などはすっかり忘れてしまって、忘れさせてくれたものだけが、その本を読んだことの一番大切なものになっている。
本を読むことは旅みたいなものだな、と思うけれど、その旅のおわりが、先のゴンブリッチの言葉に通じているように思う。
石井桃子さんの言葉が引用されていた。
戦争と平和は、まるで回り灯籠のように、何千年も前から何十年かの周期で交互にやってきます。どうしたら平和のほうへ向かっていけるのだろう、と、人間がしている命がけの仕事が『文化』なのだと思います」


人間は生まれ落ちたときに、親から乳をもらうが、それと同時に言葉ももらうのだと長谷川摂子さんは書く。
長谷川摂子さんの母語は、出雲弁だ。(地方語が廃れていくことを、文化として危機、というよりも何よりも、それは、「母語」が消えていくことへの恐れなのだ。)
そうそう、先日読んだ『人形の旅立ち』全編に広がる出雲弁は、温かかった。あの本のなかに、作者は子どもの頃の言葉を生き生きと甦らせたのだなあ、と思っていると……
出雲弁(に限らず、様々な地方語)には、五十音表記では表せない音が少なからずあるのだという。
読者であるわたしが「出雲弁の温かさ」と思って読んでいる言葉に、作者は「ほんとうはちがう!」ともどかしい思いでいたのだろうか。
文字にならない音、共通語に翻訳できない言葉があるということ、
馴らし難い生き物のようでもあり、わからないながらに、わからないからこそ、命あるものの弾力を感じたりもするのだけれど。


言葉ってなんだろう。
言葉を大切にするって、どういうことなんだろう。
著者はどんな風に考えているのだろう。


「複数の人間の間で、言葉が声になって、ピンポン玉のように行き交うときに帯びる言葉の生命力」
「自分の言葉を他者に対して規範にしてはならないと思う。」
「言葉自体として「美しい言葉」とか「正しい言葉」は存在しないのだ。すべてそのことばを使う人間と人間の関係のありようで美しくも醜くもなる」
「言葉は歴史的根拠で生きるのではない。芸術だから生きるのでもない。いったん生命力を得たものなら、出自などどこ吹く風、やくざ言葉であろうと、個人が言い出した言葉であろうと、子リスのように跳ねて飛んでどこへでも散っていく」


心に残ったフレーズだ。どこにもかしこにも、言葉が生きて呼吸しているような気配がこもっている。
ことに最後の、「子リスのように跳ねて飛んでどこへでも散っていく」というのがいいなあ、と思う。わたしが、『人形の旅立ち』の「出雲弁」に感じていたのは、それだと思うよ。