『友と読書と』 吉田健一

友と書物と (大人の本棚)

友と書物と (大人の本棚)


延々と続く文と文とは必要最低限の読点(、)で繋がれている。数行後にやっと句点(。)が現れて、ほっと息をつく。そういう文章の連なりを追う読書なのだった。
ちょっと集中が途切れると、何が書いてあるのかわからなくなってしまう。
この本を楽しむには、書かれている一言ひとことを、ゆっくり読む必要があるのだ、と思う。
この本で取り上げられている話題は、著者の忘れられない書物、文学とその周辺についての話。
書物に向かう著者の心は自由だと感じる。文章に籠る熱さ、とくに本に出会う喜びがじわじわと伝わってくる。
読書の豊かさ(その土台となる教養や知識などの幅の広さや豊穣)にくらくらする。
ときどき、自分があまりに浅学すぎて、ついて行けていけていないと感じて、情けなくなる。
もしかしたら、とんだ誤読をしているのではないか、と冷や汗を流しながら、付箋を貼りまくる。


たとえば、こどもの本について書かれた部分だけ取り出しても、貼った付箋は一山ある。
「一流の文学は子供も読むし、又、子どもにも読めるものなのである」
「子供は「罪と罰」を読まないと言ふものがあるならば、その人間は子供が何を読むと自分の方で決めて掛かってゐるのに過ぎないのである」
「子供にそれだけのことが解るかどうかといふことは問題にならない。ただ一つの世界に遊ぶのを楽むといふのは解るといふことと少しも矛盾することでなく…」
心に残る言葉はもっともっとあるけれど、小さいころから本の世界に遊ぶことのできた人は幸せ、と思った。そして、子どもの手の届くところに本がある家庭はいいなと思った。


それから、たとえば、読書における翻訳の意味あいについても。
「…この本に限らずどういふ本でも愛読したことがある程のものならば初めに手に入れた版が最も印象に残り、さうした親みといふものがなくて本を読むなどといふことは考えられない。」
との言葉に大きく頷く。
あとからどんなに良質な新訳が出たとしても、最初に出会った(好きになった)本のほうが(ほんとは挿絵や装丁まで含めて)宝なのだ、と思うことが多いから。


千夜一夜』について語った言葉では、
マルドリュス訳(フランス語)の「千夜一夜」は、アラビア語を知らなくても、その世界が全身に染み通るという。人を圧するものがあるという。しかし名訳といわれるバアトン訳(英語)にはそういう力がないという。そこから、著者は、
「これは文章ではなくて寧ろ訳文に用ゐられてゐる国語そのものの問題である」と考え、
「十九世紀の英語が「千夜一夜」で扱はれてゐる種類の微妙な人間関係その他を表すのにフランス語程は適してゐないといふことが考えられる。」
というのだ。
ここを読んで思い出したのが、以前読んだゼーバルトアウステルリッツ』に付された多和田葉子さんの解説で、ドイツ語原書では隠されていた「ゼーバルト独特のメランコリーは英訳されることで生まれてきたものだ」という言葉である。
その国語だから表現できるもの、その国語でなければ表わすことができないものがあるのだろうか。
日本語しかまともに読むこともできない(まして味わうことなどとてもとても…)私には、想像もつかない。
言語と言語の間をかろやかに跳躍するかのような読書には、地の上から仰ぎ見ただけではわからない、はかりしれないものがあるのだろう、と思う。
母語から切り離されて、別の言語で生きざるを得ない人たちの痛みにも思いを馳せる。
そして、自分の言葉は、いったい何を表現したがっているのだろう、何を表現できずにいるのだろう、と思ったりする。