『あひる』 今村夏子

あひる

あひる


表題作『あひる』
知人が手放さなければならなくなってしまったあひるを引きとったのは、「わたし」の父母。
あひるが庭にいるようになると、近所の小学生が遊びに来るようになる。その人数も日々増えて、庭は、にぎやかになってくる。


この家の子どもたちはすっかり成長してしまい、ことに両親の秘蔵っ子だった下の子(「わたし」の弟)などは、実家とはずいぶん疎遠になってしまっていた。
父母は生活に張り合いを失くしていたのだろう。近所付き合いなども、あまりしていなさそうだった。
近所の子どもたちがあひるを見に来るようになってから、生活は一変。父母は毎日生き生きして、楽しそうだ。
しかし、それが、だんだん度を越していく。
父母はたのしんでいる。みんなよろこんでいる。でも、なんだか、変だ。
どこがどうおかしいのか、はっきり指摘できない奇妙なことがじわじわと進行していることが、ものすごく気味悪い。


まるで芝居のセットの中にいるみたい。父母は幸福ごっこをしているみたい。その姿は、気持ち悪いとともに、なんだかおかしくて、悲しい。


けれども、もっとも変なのは、
実はこの夫婦の娘である「わたし」だ。
「わたし」は、父母の生活を見ている。何かが進行していくのも見ている。危ない感じにも気がついている。
それなのに、傍観者のままなのだ。
消極的ながら、父母の「それ」を手助けして、支えてしまっている。
自ら目を塞いで、見たくないものは見ないことにしているのかもしれない。
その姿は、(一種の)狂気に駆られていく父母よりもずっと気持ち悪いし、怖ろしい。


併録の『おばあちゃんの家』『森の兄弟』は連作短編。
孔雀を見た、という言葉が連作のキイワードかな。ここは日本の田舎町。民家の近くには鬱蒼とした山があるけれど、さすがに孔雀はいないはずだ。
孔雀っていったいなんだ?
ここでも、気味の悪いものを見せられる。ある光景に、ある日常に、引きこまれる。
とっぷりと感情移入して読んでいたそれらの日々は、しかし本当に見えたままの世界なのだろうか。


たとえば・・・
みのりが大好きなおばあちゃんは、みのりにはとてもやさしい。
けれども、みのりの一家と、おばあちゃん(実は血のつながりはない)の関係はいろいろと複雑である。
おばあちゃんの家は、みのりの家の敷地の一角に建っていて、みのりがしょっちゅう入り浸っていることから、こじんまりしているけれど、さぞ居心地よいにちがいない、と思った。
けれども、おばあちゃんの家には最近まで窓がひとつもなかったこと、みのりの弟は「くさい」と言って寄り付かないこと、さらに森の兄弟の目からみたら、それは家ではなくて「小屋」にすぎないのだ、ということを知り、「あれ?」と思うのだ。
究極は、この一文。「このおばあちゃんが、一体何を考えているかなんて、みのりは考えてみたこともない」
…何を考えていたのだろう…ふと立ち止まってそう思うと、なんだかぞわっとするのだ。


自分の持って居る先入観や建前的な物の見方を揺さぶられるような感じがする。
私、何を見せられた? どういう気持ちで眺めていた? 
突然ひっくり返される風景に、苦い思いを噛みしめながら、何よりも自分の物の見方のあやふやさを思い知る。
わたしも、そこで、孔雀、見たんだよね・・・