『へんな子じゃないもん』 ノーマ・フィールド

へんな子じゃないもん

へんな子じゃないもん


アメリカから著者が日本に里帰りしたのは、死を間近にした祖母の看病(常時介護を続けていた母を手伝って)のためだった。
ものを言わず眠り続ける祖母の枕辺で、著者は、祖母と暮らした過去の日々を振り返る。


戦後すぐの東京の家は、家業の仕事場も兼ねていて、狭い家のなかに人がいっぱい暮らしていたという。家人は一日中忙しくしていたそうだ。
そういう言葉からは、ごちゃっとして賑やかなおうちを思い浮かべるけれど、この家には、逆に閑さを感じる。繊細さを感じる。時間を忘れて風が吹き抜けていくのを感じているような。
祖母も母も口数は少なく、遠慮がち。その所作は、忙しくしていても優雅であった。
祖母は、たとえどんなに小さな土地であっても敷地の境界いっぱいに家が建っている様を嫌ったという、それゆえの風通しの良さかもしれない。


著者の過去を振り返る・・・とはいえ、一から十まで、事細かく語られているわけではない。
著者の文章も口数少ない。何がどのように起こった、という記述はほとんどなく、霧の中から現れた記憶の片りんに、今感じていること、考えていることを乗せていく、というような感じだろうか。
アメリカ人の父と母の間に生まれた子。両親は八年の結婚生活の後に離婚して、母はずっとこの家に祖母と一緒に暮らしていた。
そうしたことも、そのまま語るのではなくて、日常のあれこれの出来事(というよりは、ある一場面)の描写や、その場面に伴う思いなどに混ざった微かな情報から、読者のわたしは事情を察し、推し量る。
ああ、そういうことなんだな、と。
家の内外の様子や、大切にくるみこまれた子ども時代のことや、聞いてはいけない大人の事情を察知して自ら戒めて引いてきたことがら(たとえば子ども同士の付き合いは大人の事情にこんなにも影響されるものなんだ、ということなど)妙にせつなく懐かしい。
昔遊んだ路地裏や原っぱの湿っぽい匂いがふわっと立ち上ってくるような気がする。


この文章は英語で書かれ、アメリカで出版されたのだな、と思うとちょっと不思議で、そのくせ合点がいく思いがするのだ。
著者は日本とアメリカと両方のまなざしを自分のなかに持っている。
彼女の懐かしい光景が、この国を(せいぜい旅行くらい)出たことのないわたしのようなものに、心地よいと感じさせると同時に、ふと置いてきぼりにされたように思わせるのは、そういうことなのかもしれない。
そして、よくよく考えてみれば、置いてきぼりにされていたのは、いつも、著者自身なのかもしれない、と思う。
タイトル「へんな子じゃないもん」は、祖母の言葉である。
著者が子ども時代をふりかえり、「おばあちゃま、へんな子をお医者さんのところに連れていくのはいやじゃなかった?」とふと尋ねた時、目を閉じたまま祖母は答えたのだという。「へんな子じゃないもん。自慢の孫だもん」
「へんな子、と思われている」という意識が、もしかしたら、この国に生まれ、この国で成長するあいだ、著者にはずっとあったのだろうか。そういうことがことさらに、深刻に文章のなかには書かれていないのだけれど。(ことさらに書かれて居ない部分に、別の個所でわずかに触れられた言葉を薄くのばしながら読む。)


この本は今から二十年前に書かれたのだ。戦後五十年のころ。
日本の文化や習慣について、教育について、政治について、平和について、天皇の戦争責任、従軍慰安婦村山談話、沖縄の米軍基地について。
そして、核について、ああ、二十年もまえに、こんなふうに語っていたのか。・・・まるで予言のように。
>平和は脅威にさらされたとき初めて陳腐であることをやめる。しかし脅威がやってきたときには、わたしたちは平和について考えるゆとりを失っている。
>国旗・国歌の強制といじめはどこかでつながっていると、示唆する教師はいなかったのだろうか。


彼女はアメリカの人と日本人の両方の目で見ながら、両方に向かって語る。
あるいは、アメリカにも日本にも与さずに語る。
鋭く容赦のない言葉に、どっぷりと目先のことだけに溺れてばたばたと(またはのほほんと)考えることもせずに暮らしてきた当時の私を思いだし、無性に恥ずかしくて、居心地わるくなる。
土門拳についての一連の文章や、カミカゼのこと、そして、芝居がかった村山談話のからくり(?)など、切っ先鋭い刃物のようであるにもかかわらず(たとえば、「特攻隊員は、もっと正確に言えば、機械の部品だった」など)、それなのに、なんだろう、風が通り抜けるようなこの感じは。
言いきった言葉にさえも、相手を受け入れようとする余白のようなものを感じる・・・
そう思った時、さまざま言葉が、すうっと彼女が昔暮らした祖母の家に戻っていくような気がするのだ。
――灌木はほとんどがツツジで、香りたかい沈丁花が二、三本と、たくましく育ち過ぎた夾竹桃が一本まじっている。花はタチアオイグラジオアラス、ビジョナデシコ、コスモス、キンギョソウ。(人びとの好みがもっと異国ふうの草花に移るにつれて店頭からも消えていった)
――敷地にたいする家の大きさの比率で持ち主の品格を判断するような祖母の庭だ。
私は目に浮かべる。それぞれの草木の間の余裕を。風や陽射しが、土の匂いが、静かに立ち現れて再び去っていくまでひととき留まるような庭を。
ノーマ・フィールドという人が、そこに戻り、そこからはじまる・・・