『ひとりの体で(上下)』 ジョン・アーヴィング

ひとりの体で 上

ひとりの体で 上

ひとりの体で 下

ひとりの体で 下


誰よりも自由で解き放たれているとも言えるんじゃないかな。それなのに、なんて狭くて暗いところに閉じ込められているのだろう。
ジェンダーの問題、アイデンティティの問題、そして、多数派のなかに身を置くことによる暴力(何もしなくても!)などを感じながら、読む。
「私」に気持ちを重ねて読むことで、はじめて(自分と違う立場〜少数派であり、異端と見られる立場に身を置かざるを得ないことについて)少しだけ解ったような気がして、それもまた情けない。
一つ秘密が暴かれる度に驚き、同時に息苦しくなる。まだ隠されている秘密もあり気になる。すべてわかると、今よりもっと辛くなりそうだ、と思いながら読んだ。
息苦しい、と思うのは、この「秘密」が多数派にとっての、「相手のためである」と固く信じた「大きなお世話」によるもので、相手を決して理解しようという努力をしない(しようという発想さえない)ことによるのだ。とわかってしまったから。
知ろうとしないこと(知りもしないものにレッテルを貼り、知ったつもりでいること)は暴力だった。
しかも、それが暴力だとは、暴力を振るう側には、まったくわかっていないということ。逆に、暴力を振るう側が、相手から暴力を受けていると感じてしまうこと。
そのような場面が、状況を変えて、何度も何度も出てきた。
そして、語り手の、静かな憤りに同化して、はじめて、彼らの気持ちになってみる。しかしその後すぐに、その憤りは、むしろこちらに向けて放射されていたのだ、と気がついて、なんとも情けなくなるのだ。

語り手は老境にあるバイ・セクシュアルの作家。ビルである。
生きづらい人生であった。無理解な周囲、不本意すぎるいくつもの別れ、そして、次々に遭遇する知人たちの死と、自身や知己たちに訪れるのではないかと思われる死への恐怖。
今はひらけたのだろうか。もっと自由でおおらかでいられるのだろうか。
・・・そんなことはない。自身もその周囲も、そのために苦しんでいるではないか。


いっぽうで、思うことがある。言葉の問題。LGBTQ。と今は言うのだそうだ。
言葉(名称)がどんどん変わっていく。短い時間で、変わる名称は、その名称でよばれる人びとの社会での位置づけもまた、あやふやなままあちこち好きなように転がされていることの象徴のようにも感じる。
そして、もうひとつ、なぜ、そういう言葉でくくるのだろう・・・
彼らが少数派だからだろうか。「ぼくたちのような」という言葉がでてきたけれど・・・
どこを向いても何かの枠の制約の中にいれないと(はいらないと)不安なのだろうか、と思ったりもした。
(いつか、そんな名称などなくなればいいと思う。ぎこちない思いがする少数・多数という言葉も使わずにすんだらいいのだけれど)


「きみは不寛容に対して不寛容だ」という言葉がでてきた。
どうして、自分のありのまま(捨てることはできない。捨てたら存在することさえできないほどのもの)を受け入れようとしないものを、そのままに受け入れることができるだろう。
どちらの立場にたっても、それはとてもとても難しい。どうしてそんなことを要求されなければならないのだろう・・・
かといって、相手の不寛容に対して不寛容であることもまた、苦しいはずだ。


時系列をいったりきたりするこの物語で、ときどき、前置きもなく、老いていく作家の人生の間に若い日の描写が挟み込まれてくる。
懐かしい人びとが次々に死んでいく中で、よみがえってくる高校時代は、苦しいのに甘やかで、苦々しいエピソードさえも、ただ懐かしく、美しい。
ときに戸惑いながら、拒絶しながら、または、ただ慈しみながら、黙って彼の行く末を案じていた人たちがいたことなど、そればかりが蘇ってくる。


これは、世の中の多数派たちの間に埋もれながら、息をしているあらゆる少数派のための物語であるに違いない。
物語を読みながら、思いを馳せる。
もしかしたら、私の中にも小さなビルがいるのではないか。キトリッジが、エレインが、彼らの母や父たちが。
あるいはあらゆるグループのなかに、あらゆる人種のなかに・・・
人が理解しようとして理解できるものって、あるいは本当に少ないのではないか。
「きみは不寛容に対して不寛容だ」という言葉は、きつくて、ずしっと心に残るのだ。