『アネネクイルコ村へ』 岩田宏


ほとんどは1960〜1970年代に書かれた外国旅行記
重すぎず、軽すぎずの文章が心地よいです。


ソビエトでP女史に請われて会う。
西鶴をロシア語翻訳したのが、日本文学研究の第一人者といわれるP女史だった。
しかし、著者は、翻訳に重大な脱落があることが気になっている。
P女史と著者の翻訳に対する考え方(?)の違い、すれ違いは、興味深い。
自国の文化伝統にそぐわないと判断した箇所は大胆に切り捨てて顧みないP女史のことを「日本文学紹介者としての態度は不遜である」と著者は厳しく断じます。

>たとえば日本における外国文学の紹介を考えてみると、外国文学の翻訳作品によって、新しい思想や世界観が、日本文学のなかへ流れこんできたという歴史的事実が何度も繰返されている。無批判に受け入れるのではなく、必要な刺激として外国文学を読むということは、文学者にとって欠くべからざる仕事の一つとさえ考えられる。
>P女史は日本文学のオーソリティだと自ら思っているかもしれないが、ちょうどプリズムを通して物を見るときのように、ある角度からは日本というものがまったく見えなくなるのである。そしてその場合、露骨なエゴイズムと、安っぽい自己検閲のみがあらわになる。
これ、1965年ごろに書かれたエッセイからの抜粋です。これを読んで胸が痛くなる。
現在、私たちはどういう場所に置かれているのか、ということを引き比べてしまう。
文学者にしても、為政者にしても、その役割はとても大きい。彼らがひとたび「これはわが国の国民にふさわしくない情報、文化、習慣」と判断して、だから伝えなくてもいいのだ、隠した方がいいのだ、と判断した場合、そういうことが積もり積もったら、その国の民は、どうなっていくのだろうか。
珍しい物を見るような見聞録の文章が、まるで明日の私たちの姿のように思えなくもない・・・


この本のおよそ三分の二までが、二度のメキシコ旅行について書かれたものでした。
著者をメキシコの旅へと誘いかけているのは、革命家エミリアーノ・サバタへの思慕です。
私は、メキシコという国をなんとまあ知らないことだろうと我ながらあきれてしまう。サバタという名前は初聞きである。
この本のタイトルになっているアネネクイルコ村というのはサバタの生まれ育った村。サバタの息子やその一族が今(著者の旅行当時)も住んでいる。
また、「青い家」「黄色い家」と呼ぶ二つの博物館は、フリーダ・カーロ、レフ・トロッキーゆかりの・・・というか記念碑であるが、これももちろん初聞き。(ウィキペディアの存在を便利だのう、と感謝しつつ、情報を仕入れつつ読む)
あまりにものを知らない自分を恥じ、著者に申し訳なく思いながら、なぜ私はこのような紀行文を読むのか、と考えている。
人に会いたいからだ・・・
著者の肩越しに、著者の出会いを私も楽しんでいるのだ。
そして、そのことを本の中の著者の言葉を借りるなら「それだけで私は満足だった」(p132)
・一度目のメキシコ旅行で著者をサバタゆかりの土地に案内した初老のタクシー運転手のおしゃべりと自負とその実直さが好ましく思えたこと。
・メキシコ娘たちの人懐こさ、かわいらしさ。彼女たちの拠って立つものの確かさに拍手をする。(小ずるい下衆たちよ、ザマーミロ)
ソ連はモスクワの街路での老女のつぶやき「どうしてそんなに怒ってらっしゃるの」が心に残る。
トロッキー博物館で、片言の英語のたどたどしいコミュニケーションには、親切があふれているように感じて、晴れ晴れと気もちよかったこと。
・「あなたはサバタを見ましたか」にこたえるある老人の言葉「見たとも、見たとも。この目でな。まだ子どもだったが・・・」に込められた素朴な誇り。
・公園のベンチに座って広げた新聞には「わが国にはファシストはいないと大統領語る」・・・ということはもちろんファシストはいるのだろう。
まだまだ、たくさん。
彼らはほとんど一期一会の名も知らない人たち。名も知らない同士が一瞬触れ合い、ちょこっと心が動くのを、追体験することが楽しい。
二度と出合うことがないだろう、と思うほどに、その一瞬が宝物になるような気がして。

>・・・そしてその曰く言いがたい何ものかのためにこそ、私は旅をするのである。それは風景であって風景ではない。それは人物であり、事件であり、言葉であり、音楽であって、そのいずれでもない。それらすべての複合であって、複合ではない。