『光の子供』 エリック・フォトリノ

光の子供 (新潮クレスト・ブックス)

光の子供 (新潮クレスト・ブックス)


閉塞感がやりきれなくて、どこか息を付ける場所はないのか、ときょろきょろしてしまう。
パトリック・モディアノの『ある青春』を読んでいた時と、感じが似ている。どちらもフランスだしね。
『ある青春』も『光の子供』も薄闇の中。幾重もの擦りガラスを通して光を見ているような読み心地なのだ。
『ある青春』の光は未来にあり、『光の子供』の光は過去にある。
『ある青春』の主人公は光があることを知らないし、『光の子供』の主人公は光が何ものか知らない。
でもこのやりきれない閉塞感は、今現在、まさに「光の代役」を入手し、それがあくまでも代役であること、本物にはなりえないことを知りながら、溺れ流されていく感じにあるのだ。


映画スタジオの写真家ジャン・エクトールは照明を自在に操り、往年の女優達を撮った。彼は天才。光の魔術師と呼ばれた。
彼は、恋多き男。光の被写体である女優達の誰かがいつも彼と一緒にいた。
ジャンの息子ジルは、母を知らない。父は母がだれなのか決して語らなかった。ジルは古い映画や父の作品の中に、母の顔を探し続ける。
『光の子供』とはまさにジル自身のこと。


ジルの父が亡くなった日、映画館で彼は謎めいた女性と出合う。名はマイルス。彼は彼女を追う。
マイルスはジルにとって光の代役に過ぎなかった。
勝手な話である。


けれども彼が探している光は本当に母なのだろうか。
母もまた光の代役に過ぎないのではないか。
彼は、自分でも意識しないままに、母を探すことを通して、ずっと父を探していたのではないか。
決して追いつくことができない父。別の世界で自身が成功しようともそんなことは何ほどのものでもない。


すぐちかくに眩しく輝いてみえるのに、途方もなく遠くにあるのが光。
決して手に触れることができないものが光。
だから代役を求めたのか。しっかりと触れて、ぬくもりを確かめることのできる代役を。
けれども代役は代役に過ぎないのだ。決して本物の光にはなれない。それだから、代役の代役、さらに代役の代役の代役・・・を求め続けるのか。
どこまで激しく求めても、決して満ち足りることなんてありえないじゃないか。
相手は血の通う人間なのだ。相手にとっては誰の代役でもあるはずがないのだ。
目の前にある形あるものに手を伸ばしながら、そのむこうにある実体のないものを見て・・・そんなことがいつまでも続くわけがないだろうに。
もっともやりきれないのは、自分で自分のしていることをちゃんとわかっていながら、流されずにいられないことだ。


物語は静かだ。ゆっくりと流れていく。まるでモノクロのサイレント映画のように。
暗い場面ばかりなのに、光いっぱいのまぶしい画面が印象に残る映画。光の場面が光ゆえにやりきれない、と思わせる映画。