『文学こそ最高の教養である』 駒井稔+「光文社古典新訳文庫」編集部(編著)

 

目次には、フローベールメルヴィルナボコフドストエフスキー、etc
たとえ読んだことがなくても、その代表作の名が思い浮かぶような、文豪たちの名前だ。
だけど、今回、各翻訳者たちがとりあげているのは、(代表的な作品もあるけれど、)むしろそんな作品があったの、と思うような小品だったりする。
なぜ? 
各翻訳者たちは答える。その作家の作品について知るうえで、ここでとりあげた作品は、目立たないように見えて、とても大切な作品なのだ、ということ。大作に昇華するための原点がここにある、というような。
読んでいると、有名な大作の方は読まなくても(読めなくても)この小品だけは読まなくてはいけないんじゃないか、と思えてくる。


この本のなかの翻訳者たちの多くは、編集者から依頼されたとき、「そちらから何か提案(訳したいもの)はないか」と問いかけられたそうだ。様々な理由からぜひとも翻訳したいという作品を、翻訳者自らが選んでいる。
だから、作品について語る言葉もひときわ熱く、深くなるのだろう。……正直圧倒されて古典おそるべし。と気おくれしてしまうこともあった。


駒井稔さんによる「あとがき」には、
「意外なほどすんなりと読むことができたのではないでしょうか。内容は高度なことが語られていますが、すっと頭に入ってきませんでしたか」
と書かれていて、確かに、と頷きつつ、実はその「内容の高度さ」が問題だ、と冷や汗かいている。
14人それぞれの翻訳者と案内役の駒井さんのやりとりは、わたしの目線のはるか高みを行く。
各翻訳者たちが(愛情こめて)言う、ロブ=グリエはつまらないとか、メルヴィルはクレイジーだとか、鴨長明は悟っていない普通の人(時にロック)だとか、『ソクラテスの弁明』はソクラテスの弁明じゃないとか、そういうドキッとする言葉にはちゃんとちゃんとした理由があるのだ。


翻訳の難しさに関する話も、おもしろかった。
その言葉独特の言い回しや、独特の文化、習慣、自然などをあらわす言葉をどう訳すか。
あるいは、独特の文法など。
鈴木芳子さんの
「日本語にする難しさはどんなに一生懸命やっても、薄いベールがかかってしまうことにあります。この一枚のベールをいかに突破するかということが、翻訳の大きな課題ですね」
の言葉が印象的だった。


また、なぜ、今、新訳なのか、ことに、古典新訳文庫は読みやすい、わかりやすいと言われるのか、との質問に対する一つの答えとして、複数の翻訳者が、昔に比べて今のほうが語学力が上がっている(原文の解釈も進化している)ことをあげているのも印象に残る。
なるほど……だから、新訳って大切なんだ。


長い時間のふるいにかけられながら残ってきた古典、一読してもなかなかその良さがわからないもの、何度も繰り返し読むことで理解が深まるものもあるのだろう。
だから、今はわからなくてもいいと開き直って、まずは、その作品に私も出会ってみたい、と思う。
そして、もう一度、この本に戻ってくる。圧倒されて読んだ、翻訳者と編集者の言葉に、今度は、ふむふむ、と相槌うつことができるだろうか。きっとね。今よりはね。楽しみが広がる。
そう思わせてくれたのも、励ましてくれたのも、翻訳者たちの言葉だった。


たとえば、このような。
「文学は経験の一種」「本を読むだけでも未知の自由を体験させてくれる」野崎歓

「きっとよくわからないとか、フランス文学だから難しいんじゃないかとか、そうやって分からないことにしてしまわなければ、この話は、わかる」「……ただ読んで「面白かった」という読者がいてくれるといいなと思って訳したんです」谷口亜沙子

プルーストを読むことが、自分の人生の生き方、見方、考え方と繋がる瞬間があれば、それで十分です」高遠弘美

「日本では、哲学は日常生活とはかけ離れたところがあって(略)もっと身近なものとして、ショーペンハウアーを懐刀にして頂きたい」鈴木芳子