『STONER ストーナー』 ジョン・ウィリアムズ

ストーナー

ストーナー


>ウイリアムストーナーは、一九一〇年、十九歳でミズーリ大学に入学した。その八年後、第一次世界大戦の末期に博士号を授かり、母校の専任教師の職に就いて、一九五六年に死ぬまで教壇に立ち続けた。終生、助教授より上の地位に昇ることはなく、授業を受けた学生たちの中にも、彼を鮮明に覚えている者はほとんどいなかった。
一人の人間の一生を語るに、これだけの文章。その人を知らない人にとっては、充分かもしれない。
でも、もちろん、それでは何も語っていないのと同じ。
これは、ウィリアム・ストーナーの生涯を語る物語の出だしなのだ。
不器用で物静か、控え目に見える彼の内面には、激しい理想と情熱が燃えていたし、思いもかけないほどに頑固である。
その価値観は、整然として、潔癖な感じがする。
でも、その不器用さと頑固さが、人と関われば、軋轢を生むし、相手も、自分をも、生きづらくすることもある。
個性的でアクの強い人間たちとの軋轢・・・でも、表だって彼は闘わないから、相手にとっては余計に苦しかっただろう。
彼自身の世界もどんどん狭くなるような、息苦しさに、いたたまれなくなってしまう。
何がよくて何が悪い、ということではない。
見方を変えれば、痛々しく感じるのは、彼自身に、ではなくて、彼と関わってきた人間たちのほうにだ。
もし、違う相手とまみえることがあったなら、もしかしたら、もうちょっと違う人生がありえたかな、とか。
そして、くすぶるような恨みにさらされながら、それを受け止める主人公の忍耐力に驚きつつ、わずかに苛立ってもいる。


もうちょっと器用だったら、もうちょっと柔軟だったら、そうしたら、彼はともかく、彼の周りの人たちは楽だったかもしれない、とも思う。
彼の人生のなかで、この世で花開くはずのものが開かないままに萎れてしまったあれこれがあることも、残念にも思ってしまう。


野望とも夢とも程遠く、将来は農地に立ち帰るべき青年が、英文学の世界に引きこまれる静かな嵐のようなあの瞬間。
生涯の友人となる(生きていようが死んでいようが)三人の若者たちが語り合った、大学というものへの切なる思い。
熱風のように吹く第一次大戦時の兵役志願者たちの列に、最後まで加わらなかったこと。
若き日の切ないくらいに美しい知と情との断章は、彼を生涯支え、同時に苛む。苛むけれど、さらにさらに磨き抜かれて彼の奥で輝きを増していたのだ。


老境に向かい、さらに、不思議な充足感が満ちてくるのを感じている。
何一つ形に残るものはないではないか。苦労して生み出した彼の著書でさえ。
一生を言葉にすれば、冒頭引用した数行のあの文章で足りる程度の・・・きっと忘れ去られていく一人なのだ。
でも、そんなことはどうでもいいのだ・・・


欠点は大いにある。友もいるが敵もいる。静かな愛情は(誰にとっても)報われたといえるだろうか。
やったこと・やらなかったことの後悔は多い。失意の内に座りこみ、時には動くことさえできなくなる。
だけど、それでも今、立ってここにいる。ここにいる。
生きること、「もういい」と言われるまで生き続けること(偉大でも無く、重大でも無く、名声とも遠く)の尊さ(?)が静かにしみてくる。
ストーナーとともに生きる名もなき人たちはきっと無数にいる、と思えば、じわじわと勇気が湧いてくる。