『いまファンタジーにできること』 アーシュラ・K・ル=グウィン

いまファンタジーにできること

いまファンタジーにできること


思えば、この世は目に見えるものだけでできているわけではないはずだ。
時々忘れそうになる、もう一つの「この世」へ橋渡しをしてくれるのがきっとファンタジー。もう一つの「この世」の姿と向き合う手段を提示し、喜びを与えてくれる。
物語にしろ、建造物にしろ、醜いものをむき出しにし、真に美しいものにむけて目を開かせてくれるもの。
善とは何か悪とは何か、何が真で何がいんちきか、たくさんの比喩とたくさんの選択肢との提示のうちに見極めさせてくれるもの。
自分の立ち位置をしっかりと確認させてくれ、自分の見えない姿を認識させてくれるもの。
だから、ファンタジーを読むことが、現実からの逃避の手段であろうはずがないのだ。
そして。
大人、子ども、軽々と年齢の枠を超えて読まれているものはファンタジーのほかにない、とル・グウィンはいう。


ル・グウィンはファンタジーの紡ぎ手。しかし、もろ手を上げて「ファンタジー万歳」と叫びはしない。
「問いただされていない善と検証されていない悪との間の架空の戦闘は、暴力の言い訳にすぎません」という言葉ほか、鋭く厳しい批判で、安易で粗悪なファンタジーを追い詰めていく。
その鋭い切れ味に圧倒される。
読んだことがある物語がいくつもとりあげられていた。
そのおかげで「いいのだけれど、何かがちがう」「なんとなく納得できない」ともやもやしていたものの正体を見極めることができた。霧が晴れるように。
激しく攻撃するのは、物語に巧にすべりこませた「いんちき」
優れたファンタジーへの熱い思いと果てしない思慕があるからこそ、ル・グウィンは、ファンタジーという名前に隠れて為されるいんちきやご都合主義を許さない。
読んでいて思った。これはファンタジーだけの話ではないよ、と。そういう「いんちき」な本は、ジャンルを超えてどこにでも転がっている。
話がうまいし、感情のうわっつらを上手になぜてくれるから、一時は確かにのめりこむ。感極まって涙を流すこともある。でも、その一方で、腑に落ちないもやもやが澱のように残る。
そんなもやもやに「まあいいか」と言っちゃいけないんじゃないのかい?とにわかに思いたった。


ファンタジーとは何か、ファンタジーは何をしてきたのか、ファンタジーは何をめざしているのか・・・さまざまな方角からさまざまな方法で、ル・グウィンは語る。
確かにファンタジー特有の話だなあ、と思う部分もある。(その輝きを、著者は、なんて誇り高く語ることか)
でも、その一方で、ジャンル関係なくどのような文学にも共通して当てはまる大切なことと思うものもたくさんあった。
そもそもル・グウィンがファンタジーに数える作品たちは、思っているよりもずっと幅が広い。言い換えて「想像力の文学」と呼ぶ。良い名前。
そして、ジャンルとしてのファンタジーは、(一段下に見られがちだけれど)他の文学に何一つ劣るものはないのだ、と言いきる。
読みながら思った。もし、ファンタジーが他の文学よりも低く見られるとするなら、それは読者にも問題があるはずだ。
あるパターンに当てはまる量産粗悪品を十把一絡げに「ファンタジー」と持て囃してこなかったか、と自問してみる。
物語の真価を見極められる読者でありたい。


わたしは一人の本好きとして、やはり面白い本が読みたい。そして、一年にせめて一冊でいい、何度も何度も繰り返し読みたい本、読むたびごとに深い森に分け入っていく喜びを与えてくれるような本に出会いたい。
大切な本の奥には不思議な地平がある。不思議な海がある。そんな気がする。
読めば読むほどにその地平は広がり、海は深まり、さらにさらに豊かになっていく。
豊穣に広がっていく世界は、私の中にあるのか、外にあるのか、眩暈がするほどの喜び。
それはどのような本かといえば、この本の中にほとんど書かれているような気がする。(そういう本に出会うために、避けて通らなければならない本についても)