『遁走状態』 ブライアン・エヴンソン

遁走状態 (新潮クレスト・ブックス)

遁走状態 (新潮クレスト・ブックス)


どれも、怖い話だった・・・


たとえば、何かがおかしい、そのことをきっかけに自分は壊れ始めたのだ、と感じている、とする。
でも、「そのこと」を丁寧に振り返ってみれば、確かにそこそこインパクトのある出来事だったかもしれないけれど、とりたてて何かがあったわけではなかった。理屈に合わない話ではなかった。
ありふれた日常の何に敏感になっているのか、わからないながらに、語り手の不安、恐れが、読んでいるこちらにものしかかるようで、、妙にぴりぴりとしてしまう。
何も起こっていないようにしか見えないことが恐くなる。


たとえば、何かが執拗に追いかけてくる。逃げても逃げても逃げられない。どんな撒き方をしても。
追っ手は、特に何をするわけでもない、ただぴったりと後ろに張り付いているだけ。
そもそも何ものなのか、何のために・・・決してわからないまま、逃げること以外に何も考えられなくなる。とりつかれているようで恐い。


たとえば、全幅の信頼を寄せるひとりの指導者がいる。
でも、指導者も人間。間違えるし、狂気にとらわれることだってある。
徐々に壊れていく指導者を、冷静に壊れていると感じながら、それでも離れることもできず、逃げ出す意志さえなくし、ずるずると身を任せていく恐怖。


たとえば、幼い少女。(離婚しているとはいえ)愛する両親がいる。家があり、何不自由することもない。
すべてを所有しつつ、何もかもが、自分の皮膚から急速に剥がれ落ちていくことを彼女は最初から感じていたのだろう。だからその感覚から自分を守ろうとしたのだろう。
喪失感に鈍感になろうとしたのだろう。でも・・・
彼女が絶望的な孤独の中で迎える朝の光のなんという冷たさ。


ホラーというわけではないのだろう。派手な(?)恐怖も狂気もここにはない。ぎょっとすることもない。冷水を頭からぶっかけられることもない。
ここに描かれている狂気や恐怖は、私のよく知っている日常の隣にある。
何かのはずみで半歩よろけたら、そこに足を踏み込んでしまいそうな、そういう恐ろしさなのだ。
そういうものがあることは、実はずっと前から知っていたんだよね。見ないように気を付けていただけかもしれない。
だめだめ、もう元には戻れない。だって気がついてしまった。気がついてしまったときから、何かが崩れ始める。
その崩れは、自分の外にあるのだろうか、それとも中に?
居心地が悪い。自分に自信がもてない。
そもそもなぜそんなことを気にするのだ。どうでもいいじゃないか・・・どうでも・・・
気がついたのか、ほんとうに。それとも新しい夢(悪夢)の中に足を踏み入れたのか。
なんともいえない居心地の悪さをじっくりと体験させられてしまった。
怖いけれど、どこか切なくて、どこかかわいくて、どこかおかしくて悲しい。で、やっぱり怖い。怖い。