『ハルムスの世界』 ダニイル・ハルムス

ハルムスの世界

ハルムスの世界


次々に老婆が窓から落ちていくんだよ。
男たちが普通におしゃべりしながら相手の足を切っているんだよ。
理由はないし、オチもない。どうしたらいいかわからないからとりあえず、はははっと笑ってみる。
笑ってみるけれど居心地はよくない。状況つかめなくても、感じるよ。ひやっと寒い。
こんな超短編が次から次へと繰り出されるのだ。疲れるよ、苦手だな、と思う。


でも、ちょっと待って。この物語(?)はみんな、スターリン恐怖政治の真っただ中に書かれたのだ。
ある日突然断ち切られた自分の未来への展望。先を見通すことのできない恐怖だけが居座る世界は、以前読んだ児童書(児童書!)『スターリンの鼻が落っこちた』(感想)を思いだす。
「笑いは、死ぬほどの恐怖に直面した人間にとっては一種の自己防衛の身振りであり、発狂寸前にまで追い込まれた思考をいったん停止させることによって、生き延びることを可能にしてくれる。笑いはおそらく、絶望的な状況から抜け出すための、唯一のまっとうな手段なのである。」(訳者による巻末解説『ハムルスの作品世界―無意味さの意味』より)
笑いは、命がけの抵抗だったかもしれない。実際ハルムスは何度も逮捕されたというし。
そして、ハルムスの友人たちが最後に彼を見たのは、彼のアパートのドアがノックされた時。
管理人が彼を呼びに来たのだ。「ちょっと中庭におりてきてくれないか」と・・・(そして、彼はいなくなる。当時の他の夥しい行方不明者たちと同様に)
事実がそのままハルムスのショートショートにありそうな怖さ。


彼の作品の合間にはいくつものコラムが入る。彼の作品の背景となった当時のソ連のようすや、ハルムスの人生、暮らしについて。
そうしたコラムを下敷きにハルムスの作品を読んでいくのだ。
何も考えなくていいのかもしれない。ただ何もかも忘れ、笑っていたらいいんだと思う。
(笑いながら、なんだかわからないけれどじわっと寒いなって感じていたらいいのだろう。)
けれども、背景を知らされれば、やはり、考えてしまうではないか。この不可思議で出鱈目な世界の向こうに何があるのだろう、と。
たとえば・・・
ある男が、何度も降ってくる煉瓦のかけらにぶつかる。ぶつかるたびに自分の出向く場所、出向く目的を忘れていく。果ては自分が何ものなのかということさえ。
煉瓦の欠片はなんだろうな、とか。
それから・・・
眠りに落ちようとする男が自分の部屋の色が消えていくように感じることの意味は何なのだろう、とか、「本当の色ではなく〜色は奪われていた」とはどういうことなのだろう、とか。
呼び鈴を三回鳴らす「お客」って何ものなのだろう、とか。
それから四本足の烏だとか、長持ちだとか、さっぱりわからないままに、深い意味を探りたくなる。
何か別の色を「灰色に下塗り」した上に描かれたものなのではないか、と端から疑ってしまうのだ。


物語そのものの不気味さよりも、不自然なまでに折りたたまれて物語に詰め込まれた不安のほうが気になる。
このような笑いを笑うことが苦痛だ、と感じるほどに、最近、現実の世界も息苦しくなってきたから。


最後のコラムでは、ハルムスの死後、彼の妻だった女性の物語を彼女に語ってもらったことについて書かれていた。
結びにはこう書かれている。
スターリン時代のレニングラードから脱出した女性が、五十年も後に老婆となってベネズエラの椰子の木の下で語る突拍子のない話以上に、ハルムスにふさわしい回想記があるだろうか」
ここにいたって初めて心から笑うことができた。