かはたれ / たそかれ (再読)

かはたれ―散在ガ池の河童猫 (福音館創作童話シリーズ) たそかれ 不知の物語 (福音館創作童話シリーズ)かはたれ―散在ガ池の河童猫 (福音館創作童話シリーズ)
たそかれ 不知の物語 (福音館創作童話シリーズ)
朽木祥
福音館書店


ここ数日、ゆっくりと「かはたれ」「たそかれ」を読んでいます。
大切な一つのことが、
文章のなかで、何度も繰り返し繰り返し、少しずつ形を変えて現れてくるのが、美しい音楽のようだ、と思いました。
聞こえる音楽と聞こえない音楽。あるいはやっぱり、見える文字と見えない文字で綴られた本。
この本を読みながら、心がゆっくりと満たされていく感覚を味わいながら、
ああ、きっと、河童の子どもが月の光を浴びているときって、こんなふうな感じだったんじゃないかな、と思っていました。


「たそかれ」には、初読のときに貼ったポストイットがそのまま。
読み返しながら、最初に読んだ感動を思い出し、何度読んでも、同じところに心惹かれるんだなあ、としみじみ。
(ひとつだけ、なんでここにポストイットが?と思ったのは、「紅もちょっとあやしいけど」というセリフの上に貼られたもの。
これ、なぜ、ここに貼ったんだろう。・・・何を考えていたんだろうねえ、わたし。)



『かはたれ』の終章に出てきた猫の像は、(たぶん)見る人によっては、猫なのに、ちがうものに見えました。
そして、滝先生の言い淀んだ言葉がある。
その後、『たそかれ』のなかで、、麻の描いた絵が、大きな賞をとっています。
その絵は、『かはたれ』の中の印象的な場面の思い出。
物語の中で、どんなものがどんなふうに描かれていたのかが書かれていましたが、それは、「見える形」。
麻はその見える形の中に託した見えない形―心を、描いていました。
滝先生の猫も、麻の絵も、物語のなかの小さな入れ子のようでした。


河童の不知が、
「人間の中にも、目に見える姿だけではなくて、目に見えない姿を見とおすことのできる者たちもいるんだ」と言っているけれど、
もしかしたら、芸術家ってそういう人たちなのだろう。
そういう目をもったひとたちは、ちゃんと見える形の奥にある見えない形を見とおしているのだろう。
そういう芸術家の手によって送りだされた作品をわたしたちは味わう。
そして、運よく(?)見えない姿や聞こえない音楽をちらっとでも感じることができたとき、
送り手の芸術家に触れたような気がして、感動するのかもしれません。
もちろん文学も。そして、改めて、この本に出会えて幸せだったなあ、と思います。


さて、そういうわけで(?)めざすのは、麻のおかあさんみたいなチャーミングな人。
(うそです。理想高すぎ^^)