彼岸花はきつねのかんざし

彼岸花はきつねのかんざし (学研の新・創作シリーズ)彼岸花はきつねのかんざし
朽木祥
学習研究社


先月、朽木祥さんのトークセッションを聴きにいってきました。
その余韻をゆっくりかみしめたくて、少しずつ大好きな本を読み返しています。
『かはたれ』、『たそかれ』、そして、『彼岸花はきつねのかんざし』・・・(まだまだ当分続くであろう^^)


あの日聴いたお話は、本の中に、別の言葉で、物語の言葉で、全部ちゃんと書かれている。
読みながら、あの日の興奮と幸福とが、よみがえってくるのを、しみじみと味わっています。
作家さんってすごい。
こんなにも思いを籠めて、作品を私たちの側に贈ってくれていた。こんなにも優しい美しい言葉に換えて。


あの日は、朽木祥さんの本の魔法にすっぽり入ってしまったような嬉しい日でした。
ずっと続いていたはっきりしない天候の狭間で、あの日だけ、不思議にぽっかりと晴れ渡った爽やかな秋空。
講演の素晴らしさはもちろん、
思いがけずお会いできた人たちのことなど、
まるでおきつねさんの導きかと思うような忘れられないあれこれ。
夜、会場を後にして、いい気持ちで見上げれば極上の満月。
あのとき、きっとどこかに、月の光を浴びていた河童の子どもがいたはず。


早いもので、もう十日以上になるのだ、あれから。
いまだにふわふわと宙をただよっているのですが、そろそろ着地せねば、とは思っています。



この本『彼岸花はきつねのかんざし』は、
戦争末期の物語だもの。主人公の家が畑を作っていて多少の野菜は手に入る、とは言え、
おばあちゃんのたんすの中の着物は、米と交換するために少しづつなくなっていくし、
夜中に何度も鳴る空襲警報にはすっかり慣れてしまっている。
おさげ髪にもんぺ姿の也子(かのこ)たちは、B29が飛んでいくのも見るし警戒警報を気にもするが、
「たすけ鬼」や「かくれんぼ」をし、おしろい花のくびかざりを作ったりして、ひたすら遊ぶ。
おばあちゃんやお母さん、男衆のコウさんやねえやんのお話を聞いたり・・・
それは、戦下とはいえ、かけがえのない子どもの日々なのでした。


おばあちゃんたちの語る、おきつねさんに化かされた話は、化け物、妖怪変化と言うのと違う。
「おきつねさん」だもの。きつねに「お」と「さん」がついて、敬意と親しみがこもっているのです。
それはいちごを全部もっていかれたら腹もたつだろう。道に迷わされたら困るだろう。
それでも、どこか「やれやれ、しょうがないねえ」とでもいうような、
まるで近所のちょっと手ごわい御隠居さんでも相手にしているような、おおらかな受け入れかたなのでした。


おきつねさんときつねの違いを也子はおばあちゃんに尋ねます。
おばあちゃんの答えのお話もいいのですが、
それを聞いた也子のやわらかな納得の言葉も素敵で、
こんな、不思議なできごとと温かい語りとにくるまれた子ども時代がうらやましいな。


そんなある日、竹林で出会った子ぎつね。也子と子ぎつねのちょっと不思議な楽しい日々。
竹林の不思議なざわめき。丈高いひめじょおんの森。
その様子を語る言葉はまるで詩のように美しく、描写される風景は、くっきりと鮮やかに目の前に広がります。
色もにおいも音もそのままに。
それは楽しく美しい夏の夕方なのですが、
そのあまりの美しさに、風景が次第に半透明な空気の中に吸い込まれていくような、
しまいには真っ白の何もない空間だけが目の前に広がるような気がしてきて、
とてもさびしいような気がしてくるのです。
静かな文章のせいだろうか。
あまりに詩的できれいすぎるせいだろうか。
そして、そして・・・これから先に起こることを予感しているから・・・ううん、知っているから、だろう。
そして、この美しさをどうして、こんなに儚く悲しく思わされなければならないのか、
それがほんとに理不尽に思えて仕方がない。


あとがきの「子どもが子どもらしく生きることのできる日々が、いつまでも続いていきますように。」という言葉に、
そーっと声を合わせよう。
子ぎつねと少女とが、楽しそうに跳ねまわる様子がよみがえってきて、ほーっとため息をついてしまう。