『かはたれ』(福音館文庫) 朽木祥

 

 

浅沼の子河童・六寸と七寸は、ある時、不注意から、散在ガ池(浅沼を含む五つの池のこと)の河童たちを危機に陥れてしまった。その後、二河童は姿を消した。浅沼の家族は、子河童たちを探しにでかけたが、それきり戻らなかった。
幼い末っ子・八寸だけが一人取り残されて、寂しく暮らしていたが、ある時、彼のことを心配する長老に呼び出される。八寸は、姿を猫に変えて、人間界に修行に出されることになった。
そして、人間の少女・麻に逢う。
麻は、お母さんを喪ったばかりだった。


麻の家の階段の踊り場に、「笛吹きの後を、子どもたちが踊りながらついていく」絵がかかっている。ハーメルンの笛吹きの絵だ。絵の隅に、足がわるいせいで、笛吹きにつれていかれずにすんだ松葉杖の男の子が描かれている。
「助かってうれしかったと思う?」と、言葉の通じない八寸に尋ねる麻の言葉が胸をつく。
麻も八寸も、置いていかれた子ども、寂しい子どもだった。
異形の二人を結びつけたのは、寂しさだったのかもしれない……


朽木祥さんのデビュー作『かはたれ』が、福音館文庫になった。
『かはたれ』が、どこにでも気軽に連れていける小ぶりな本になったことはとてもうれしい。
本の見返しには、物語の舞台の美しい地図が載っている。(作者の手による!)これ、単行本の地図とはちょっと違うのだ。おなじ場所の地図だけれど、より楽しく美しく、詳しくなっている。
以前の地図と見比べるのも楽しい。


朽木祥さんの本は、どれも文章が美しいが、この本は、美しい、というよりも、音楽そのものなのだ。
物語には、「聞こえない音楽」という言葉が出てくるが、まさに、読む、というよりも、聞こえない音楽を聴いているようなのだ。
「まるで、月の光が音楽ででもあるかのように」という言葉も出てきた。月の光が音楽であるように、本の活字の流れも音楽になる。
目で聴く音楽。


と同時に、活字で描かれた絵でもある、と思う。
山本ふじえさんによる挿絵が豊富な本ではあるけれど、それだけではなく、文章の間から、幾つもの絵が、浮かび上がってくる。


この物語の初めの方で、彫刻家の滝先生が、真夜中に、一人で月の光を浴びている猫(八寸)をみつける。
「今見ているものが、目に映っている姿とは違うような、まだ現れていない姿をあらかじめ見ているような、奇妙な感じ」をおぼえる。
それは、一生懸命粘土をこねたり、石を削ったりしているとき、胸を打ち始める感覚に似ているのだそうだ。
「土の中に忘れられないひとの面影を探りあてたり、石の内に羽根をたたんでうずくまっている天使の姿を見出したときの、あの心躍る感覚だった」
という。
一冊の本を読むときの感じに似ている、と思う。
夢中で読んでいるとき、物語は、「本」という姿を離れて、別のものに変わる。
耳に聞こえない音楽であり、目に見えない絵。この物語が、そういうものなのだと思う。