『火を喰う者たち』(再読) ディヴィッド・アーモンド /金原瑞人(訳)

 

火を喰う者たち

火を喰う者たち

 

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舞台は、イギリスの美しい海べりの町。
1962年、十月。キューバ危機の頃の話である。
第二次世界大戦が終わって、まだ十七年しかたっていない。
戦争を体験し、心に深い傷を負った人々にとっては過去の戦争がまだまだ生々しすぎるというのに、
今、あるいは明日、核爆弾のスイッチが押されて、世界が終わってしまうかもしれない。


12歳のボビーは、この秋に、試験に通り、私立の名門中学校に進学する。
ボビーもボビーの幼なじみたちも、労働者階級の家庭に育ち、およそ豊かとは言えず、まず仕事を身につけて一人前になることが大事であったり、(どんなに賢くても)女の子に教育は不用だと考えていたりする。
そういう人びとの中で、私立の進学校に進むボビーは、エリートだったし、家庭に恵まれてもいたのだ。


しかし、新しい学校で、彼を待っていたのは、厳しい規律と理不尽な体罰、そして階級差別だった。
残酷な教師の、あからさまな侮蔑よりも、私が一番不快に感じたのは、友人ダニエルの無邪気な階級意識だ。
自分の物言いが相手を見下し、侮辱しているなんて、彼は夢にも思わなかった。
ダニエルの父(大学で美術史を教える講師)にとって、このまちの労働者たちの当たり前の生活は、(意地悪い言い方をすれば)見て楽しむ芸術、上流の人々にとって「珍しい」と感じられる芸術だったのだ。


一触即発の世界で、人々の間に蔓延する、緊迫感、厭世感、無力感。
重苦しい社会の空気のなかで、ボビー自身も、抑圧された学校生活、暴力と差別、そして、父の病気の心配などが重なり、身動きできないほどに押さえつけられていく。


ボビーは、ある時、狂った火喰い男(曲芸師)マクナルティーに出会う。
誰にも聞こえない砲弾の轟きを聞き、人々の嘆きの声を聞いて怯えるマクナルティーは、自分の頬に、尖った銀の串を刺し、自分の体を鎖でしばり、肺を火で焼き、自分の体を痛めつけずにはいられないのだ。
マクナルティーは、実体となり、影となり、夢となり、ボビーの前に何度も何度も繰り返しあらわれる。
マクナルティ―を理解したい、救いたい、とボビーはひそかに思っていたのではないか。
マクナルティ―を救うことは、不安と怯えでいっぱいの自分自身を救うことでもあったと思う。
そして、彼は、ある行動をおこすのだが……


タイトルは「火を喰う者たち」
なぜ、「者」ではなくて「者たち」なのだろう。
火とはなんなのだろう。


不安に苛まれ、緊迫した日々が続いているというのに、私の心に残るのは、夏の終わりぎわの、ひととき、まぶしいような明るさである。
人びとの暮らしの中には、祈りがある。静かに胸を打つ。


「自分がどんなに恵まれているかわかる?」ボビーの母が言う。「わたしたちを見て、そんなふうに思う人は少ないけれどね。」
友人のエイルサが言う。「奇跡よ」


祈りってなんだろう。
奇跡ってなんだろう。
それが起こる起こらないではなくて、希望を棄てないこと。絶望的な状況のなかで、あきらめないこと、投げないでいる事。日々をただひたすらに生きること、暮らすこと。
そういうことだったのではないか。
明日、世界が終わるかもしれない日に、それができるって、奇跡のようじゃないか。

 

*初読みの感想はこちらに→火を喰う者たち(2009-10-21)