『戦争と児童文学2 クラップヘクのヒューマニズムの懐に抱かれて』 繁内理恵 (『みすず』2018.06月号より)


児童文学評論家、繁内理恵さんの隔月連載『戦争と児童文学』第二回は、『第八森の子どもたち』(エルス・ベルフロム)について。
第二次世界大戦末期、11歳の少女ノーチェがお父さんとともに身を寄せた農場が、クラップヘクという。


「第八森の子どもたち」――かなりおおくのことを忘れてしまっているけれど、大好きな本だ。
もりのなかでのできごとや預かり子のこと、ドイツ少年兵のことなどはうっすらと覚えている。
何よりも、戦時とはいえ、ノーチェたち子どもたちがのびやかに過ごす日々が印象に残っている。それは温かい大人たちに守られていたからだった。
そういうことだろうか。
本当は、わたし、この本の何を読んでいたのだろう・・・


物語の背景にあった当時の事情を、繁内理恵さんは、参考文献をあげながら丁寧に描きだしてみせてくれる。
「そうだったのか」と初めて知ることが沢山あった。
その年の冬(ノーチェたちが農場に身をよせていたころ)が、ことに「飢餓の冬」と呼ばれるほどに厳しかったこと、その理由。
ドイツがオランダに侵攻した理由。オランダをどうしようとしていたか、ということなど。
背景になる事実は、この物語のなかで肩寄せ合った人々をリアルに浮き彫りにしていくようだ。そうして、農場の夫婦の受け入れの大きさがどんなに類まれであったことかと改めて感じる。


取り上げたい箇所はたくさんたくさんあるのだけれど、一点だけ。
一番心に残る、「おねえちゃん」について書かれている三章を、あげさせていただく。
おねえちゃん、と農場のみんなに呼ばれるこの子は、七歳の女の子だ。脳に障害を持って生まれたために目がよく見えない。歩くこともできない。
台所に置かれたベッドの上で一日のほとんどを過ごす。
「この家の中心である台所には、いつもヤンナおばさんとおねえちゃんがいる」と繁内理恵さんは書く。
物語の「ベッドのまわりは、ぬれたおしめのにおいがしました(後略)」という部分を引用しながら、繁内理恵さんは、この空気を、(匂いに慣れっこになった)ノーチェたちにしみ込む「親しみ深い匂い」と呼ぶ。
当時、ナチスは「国だけではなく、人と人の間にも線を引」き、優性思想(その広がりはナチスに限らないことも)に基づいて「精神疾患を持つ人や障碍者安楽死という名目で殺害し続けた」
その対極のように、まるで邪悪なものに対する(たとえば)聖性の象徴のように、「おねえちゃん」の存在を位置付けている繁内理恵さんの言葉に深く心を動かされた。
台所の温もりと、むっとするようなおしっこの匂いが混ざり合った独特の空気(息をつめて、横を向きたくなるような匂いのはずだ)に、ここで「親しみ深さ」を感じることは、かけがえのない贈り物ではないだろうか。
繁内理恵さんの文章を読んでいると、ふっと「弱いもの、ちいさいもの」と思ってみていた存在に対する眼差しが揺らぐ。
ほんとうに弱いものってどういうものなのだろうか。弱い・強いの基準って、思っていた通りのものなのだろうか。
物語のなかで、おぼろに見えていた「おねえちゃん」の姿は、繁内さんの言葉で、ちゃんと見えるようになる。