『みずうみにきえた村』 ジェーン・ヨーレン/バーバラ・クーニー

みずうみにきえた村

みずうみにきえた村


巻頭の「作者のことば」によれば、クアビン貯水池は自然に恵まれた素晴らしい淡水湖です。
けれど、ここは昔、スウィフト川流れる谷間でした。ここには、いくつもの町や村がありました。よく働く人たちが何代も住み続けていましたが、それをあかしするものは永遠に水の底に沈んでしまったのだそうです。
「作者のことば」の最後はこのように結ばれます。

>そういうところにできた貯水池は、取り引きの結果生まれたものですが、
取り引きの例にもれず、
すんなりと成立したものはひとつもなく、
文句なしの条件で成立したものはひとつもありません。


増山たづ子 すべて写真になる日まで』(感想)を読んだときに、この絵本を教えてもらったのでした(ありがとうございました)
アメリカのニュー・イングランド一の巨大なクアビン貯水池に、たづ子さんの写真の徳山村が繋がっているよう。
この谷間に生まれ育った少女サリー・ジェーンは、村が貯水池に変わっていく様子を語ります。


歩いて学校へ通った道。マスを釣った川。
夏の夜は外に出て蛍を捕まえて、逃がす。みんなで遊んでピクニックをした墓地。お墓の石のぽかぽかした感触も肌に伝わってくるよう。
冬には、近くの湖で氷を切り出す。夜は三枚の羽根布団とおばあちゃんのキルトにくるまって眠る。
三月にはカエデのみきにバケツをとりつけ、樹液をなめる。
どの景色の中にも、一緒に分かち合った友人たちがいたし、見守るパパとママがいた。


けれども、一緒にいた友だちはみんな別れ別れになってしまう。
目の前で、少しずつ奪われていくことの残酷さ。
長い長い時間をかけて村は水に没していく。


ヨーレンの文章は、ただ静かに言葉でスケッチするように続く。丁寧に、丁寧に。
感情を表す言葉はここにはない。
そして、クーニーの描くアメリカ東部の風景はどれもこれもため息が出るくらいの美しさ。
村の生活がひとつひとつ破壊されていく様子を描いた絵さえも牧歌的と思えるくらいに美しい。
(引き裂かれる痛みと苦い諦めとが、抑えた言葉や、美しい絵の間から、沁みのように広がってくる。)


サリー・ジェーンはずっと大きくなってからパパと一緒に、湖にボートをこぎ出す。
そこは、嘗て暮らした村の上なのだ。
まるで、嘗ての暮らしがそっくりそのまま、水の下で続いているような気がする。
水の上に留まり、パパとともに過ごす時間、それは、悲しみでもなく、痛みでもなく、惜しむことでもなく、・・・
もちろん、折り合いをつけることとか、癒しとかでもなくて、・・・


過去とともに過ごす時間、いいえ、過去と現在とが、静かに混ざり合っていく時間。だろうか。
それは蛍の姿になる。水底から舞い上がった蛍と、水面から散った蛍とが、水の中程で、混ざり合うイメージ。
静かな水の上で、大人になった少女とともに、水底に耳をすましているような気がする。水底の声が体の中に流れ込み溶けていくのを感じている。