はせがわくんきらいや

はせがわくんきらいや

はせがわくんきらいや


モノトーンの、力のみなぎる(だけどなんだか諧謔味と温かさを感じる)絵がせまってくる。
曖昧で甘ったるい優しさ、底の浅いうわっつらだけの善意、これらは一見美しいけれど、そこにひそむ浅はかな傲慢さ(わたしのなかにある)をつきつけられたような気がして、すごく恥かしかった。と同時に、絵本ってここまで表現できるのか、とびっくりしました。

主人公――語り手の「ぼく」が作文を書く。こんなふう。
  >ぼくは、はせがわくんが、きらいです。
   はせがわくんといたら、おもしろくないです。
   なにしてもへたやし、かっこわるいです。
   はなたらすし、はあがたがたやし、てえとあし ひょろひょろやし、
   めえどこむいとんかわからへん。

絵本の中で、絵の長谷川君はひょろっとして、ゆらっとして、いかにもバランスの悪そうな顔して、大きな目がいつも、少し困ったような、悲しいような感じに見える。その長谷川君が鉄棒にぶらさがっている。
と、思ったら、あ、ほら落ちた。
「ぼく」が走って来る。バットを放り出して、一目散に。
  >長谷川くんといっしょにおったら
    しんどうてかなわんわ。
と言いながら。
涙を振り飛ばして大泣きする長谷川君をおぶって、繰り返す。
  >長谷川くんなんか きらいや。
    大だいだいだい だあいきらい。

強いものが弱い者をいたわり保護する一方通行の(そして少し傲慢な)優しさではない。対等な、人と人の関係がここにある。対等な人に対する優しさがここにある。対等だからこそ歯を食いしばる、対等だからこそ、面とむかって「嫌い」といえる。対等だから、長谷川くんの弱さが気になるし、いらだつし、悲しい。

「ぼく」は、「だいきらい」という言葉に乗せて、長谷川くんに友だちとして見えない手紙を書き続けていたように思う。
そして、この絵本は、大人になった長谷川くんから、「ぼく」に宛てて書いた返信のように思えました。(この絵本、長谷川集平さんは20歳でかいた)

  >昭和三十年、森永乳業徳島工場で製造されたドライミルクに含まれていたヒ素によって
    西日本中心に二万人以上(推定)の乳児が身体に異常をきたし、
    百二十五人(昭和三十二年当時)の赤ちゃんが死亡しました。
    そして現在も政府の認定患者、未確認患者、数多くの人々が、苦しみ、
    そして、亡くなっています。
                                              (あとがきより)