表紙の見返しには、大糸線の穂高駅から槍ヶ岳までの経路の図が描かれている。裏の見返しは帰途、槍ヶ岳から上高地を経て松本駅に至る経路図になっている。どちらにも、余白に、たくさんのスタンプが押してある。駅や旅館、多くは山小屋のスタンプで、この絵本のための取材時に集めたものだそう。
絵本を読みながら、何度もこの経路の図を広げて、今ここだね、ここでお昼を食べたんだね、とか、点線だけで描かれたこの道(?)は、図にすればどうってことないのに、実際こんなに大変だったのだ、とか、ああここで雨に降られたのか、などと思ったものだった。
お父さんといっしょに小学五年生の「ぼく」は、はじめて槍ヶ岳へ登る。
ページを繰るたびに変わる山の姿の美しさを心行くまで味わう。一筋に続く山の道はこんなに多彩な風景の連なりであったかと驚いてしまう。
おとうさんは、今日ここに来るまでに、日帰りできる山に何度もつれていってくれた。わざわざ悪天候のときにでかけることもあったそうだ。
そうやって、充分練習を積んで、とうとう今日は、満を持しての槍ヶ岳。
巻末の作者の言葉に
「……とてもきついコースで、経験を積んだ大人の方の引率が必要ですし、小学五年生にとっても、事前のトレーニングがかかせません」
と書かれている。
充分なトレーニングを積んで、楽しみにしてきた「ぼく」でさえ、厳しい登りに、「くるんじゃなかった」と思う時がある。やはり、それほどにきついコースなのだ。
そういうとき、おとうさんはきっと何も言わない。
だまって後ろについて登ってくれるおとうさんがいること。
ことに絶妙な場所で一言「見上げてごらん」と声をかけてくれること。
いいなあ、とため息をついてしまう。頼もしい導き手をもった「ぼく」が羨ましくて。
この絵本の一番最後の「ぼく」のことば、
「またこよう」
声に出して言ったわけではない。ここまで読んだ(そして眺めた)絵本のページが、再び目の前に広がる。
「ぼく」は黙ったまま自分の胸に刻み込んだのだろう。
声に出さなくても、傍らにいる人にはわかるのだ。
だって、おとうさんにも、そういうときがあったに違いないから。
「またこよう」
子どもを導く人にとって、これほど嬉しい言葉はないだろうと思う。