「945年のクリスマス」 ペアテ・シロタ・ゴードン:平岡磨紀子

 

日本国憲法に、「男女平等」を謳う第二十四条を書いたペアテ・シロタ・ゴードンの自伝である。


天才の誉れ高いピアニスト、レオ・シロタの一人娘であり、5歳から15歳まで日本で暮らし、ほぼ日本が彼女の故郷だった。
15歳でカリフォルニアの大学に留学するが、日米の戦争が始まり、日本に住む両親との連絡が途絶える。
ペアテの父は、ユダヤ人だった。ヨーロッパに残った親族はこの大戦でほとんどが殺された。
戦後、ペアテは、日本に残った両親を案じ、日本に渡ることを最優先に、GHQの民間職員となり、1945年のクリスマスイヴに来日した。やがて民政局の一員として、憲法草案作成に参加する。
結婚後は、夫の協力を得て、日本を初めとしたアジアの芸術、芸能をアメリカに紹介する仕事に従事してきた。様々な芸術家たちとの交流の話には、胸熱くなる。
だが、この自伝の圧巻は、なんといっても日本国憲法の草案作りだ。


日本国憲法アメリカから押し付けられたものだ、ともいわれるが、最初は、日本政府の手で憲法の草案が作られたそうだ。けれどもそれは、明治憲法とほぼ同じ内容だった。この憲法が発布されていたら、どうなっていたか、と思う。


民政局による草案作成会議の場には「戦勝国の軍人が、支配する敗戦国の法律を、自分たちに都合よくつくるのだなどという傲慢な雰囲気はなかった」という。
作成メンバーの胸にあったのは、自分たちの理想国家。
ペアテが受け持ったのは女性の権利だったが、彼女が思い描いたのは、本国アメリカでさえ(当時)成し得なかった、女性が本来生まれながらにもっているはずの権利を明記することだった。


ペアテの母は、子どもには、時代によって価値が変わるお金ではなく、生涯ゆるぎない財産を持たせたいと考えていて、それは教育だった。そこに、男子だから、女子だから、という枠を嵌めることはなかった。
そのような家庭で伸びやかに育ったペアテであったから、家から一歩外に出たときに(日本だけではなく、留学先の大学でも、卒業後の職場でも)見聞き、体験する不平等に、「なぜ」と考えずにはいられなかったのだろう。


ペアテが考案した条文は、結局、憲法草案からは、かなり削られてしまったものの「男女平等」という言葉は残された。
当時の日本政府が「日本には、女性が男性と同じ権利を持つ土壌はない。日本女性には適さない」と撥ねつけようとしたことも、アメリカ側が「ここだけは」と通したことも、覚えておきたい。