『日本奥地紀行』 イザベラ・バード

 

日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)

日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)

 

 

1878年五月の末に、旅行家イザベラ・バードは英国から日本にやってきた。
そして、通訳兼召使として伊藤という18歳の青年を雇い、五ヶ月かけて東北、北海道を旅した。
イギリス人にとって、そのころの日本って、まだまだ未開地というイメージだったのではないだろうか。
まして、西洋人がいったこともない奥地(内陸山間部、東北、北海道)へ、通訳を一人伴っているとはいえ、女性ひとりで旅に出ること、完遂したこと、大変なことなんじゃないか。(しかもこの人は、宿場なども整備された街道を避けて、わさわざ道なき道を選んで進む。)


東京を出発して日光街道を通り、日光へ。ここから、日本海岸をめざし、鬼怒川路を内陸に向かう。17もの山を越えて阿賀野川に出る。川を舟で下り、新潟市へ。それから山形、秋田、青森を経て、函館へ渡り、アイヌの村まで訪ねる。
読みながら、著者の現在地が気になり、何度も手もとのスマホで地名を検索して位置を確認したが、本に、経路を示した簡単な地図が載っていたらよかったのになあ、と思った。


著者にとって、日本人は小さくてがに股で、醜く思えたようだ。不作法で物見高い。子どもに嘘を教える。などなど、率直に書かれた日本人の印象は、およそ不快なものが多々ある。
だけど、逆に当時の日本人が、外国人のことをどのように見ていたかも書かれていて、その偏見と思い上がりの言葉に、ああ、どっちもどっこいどっこいだ、と思ったのだった。


海岸べりの都は、栄えていて美しい。病院も学校もある。人々も豊かな様子だ。(廃藩置県の七年後)
けれども、内陸部の山間の村では、人々の暮らしの貧しさや不潔さが目立った。そのせいで人びとは皮膚病や様々な病気に悩まされていることも。
不思議だなあ、と思ったのは、秋田県の久保田(現在の秋田市)で西洋料理を出す茶屋に出会ったこと。宿場町の宿屋であっても、白飯にきゅうり、卵に黒豆程度。鶏肉が出れば上等だったのに、ここにはビフテキやカレーがある。なぜそうなのか書かれていないのだけれど、どういうことだったのだろう。新潟を出てからは西洋人もすっかり見かけなくなっていたのに。


旅の間、著者が悩まされたのは、ノミや蚊のような刺したり噛んだりする虫たち。
それから、まるで見世物のように彼女のまわりに無遠慮に群がる野次馬たち。


通訳の伊藤青年は、勤勉で有能だった。頼りにしてはいたけれど、心から信用できなかった。彼にはずるいところかあり、あちこちで「上前をはね」た。


それでも、著者は、
「世界中で日本ほど、婦人が危険にも不作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと私は信じている」
と書いている。


素晴らしかったのは風景描写。緑の水田。森林。渓谷。そして、空、山。懐かしい古い地名でわたしの郷里の風景も出てきた。美しい描写にうっとりしながら、ああ、この景色はもうここにはないのだな、と思いだす。


読んでいると、わたしのほうが、著者よりも、この国を知らない外国人のように思えてくる。
130年も昔なのだ。外国よりも、もっと遠いところに私は暮らしているのだ、と思った。