『桜の実の熟する時』 島崎藤村

 

主人公の岸本捨吉は島崎藤村自身とのこと。少年期から青年期までを描く自伝的小説だ。
巻末の注解には、登場人物のモデルになった人物(戸川秋骨、星野天知、等々)の略歴なども書かれていて、参考にしながら読んだ。
捨吉は五人きょうだいの末っ子で、9歳のときに親元を離れ、大店である東京の知人の元に預けられ、書生をしながら大学(明治学院)を卒業する。


十代を過ぎるころには、これまでのいくつかの幼い恋から醒め、学業への情熱までも薄れてきた。友人たちとのばか騒ぎからも距離を置き、沈んだ気持ちにとりつかれていく。
ただ、文学について語り合うわずかな友との時間を大切にしていた。
後に名を残すような文学界の重鎮たちもまだ若く、ほとばしる情熱のままに語りに語り、交友を広げていった日々。
さびしい、沈んだ、という言葉で、当時の心情を描写することが多いが、寂しさの内側には一途な激しさを秘めている。方向さえ得れば抑えがたい情熱になって表に現れる。新しい文学との出会いに、新しい恋に。


彼は他人の家に世話になる書生だ。世話になった家族からは、将来養子にしたいと思われるまでにかわいがられているが、それでも彼には何を望むにも何をするにも、まず一家への遠慮があるのを感じる。
自分の心情を自由にあらわすことのできる場所はきっと限られていたのだろう。
書生という身分の窮屈さを感じた。


幾つもの別れを繰り返す青春期。その都度に過ぎていく風景一つ一つを愛おしく振り返る言葉に、感傷的な気持ちになる。
文学を熱く語り合った友。暮した町や家の内外、そして、洒落て美しい佇まいの学窓、その場所になんのことなく配された遠い人影も愛おしく思える。


女学校教師時代。教え子に熱い思いを抱きながら、とうとう何も伝えず去るしかなかった青年の悲壮な純情を、今の時代の常識に照らしながら、ほほえましいなんて言ったら叱られるかもしれない。
それでも、捨吉の鬱屈した心については、それでよしと肯定的に書かれているように感じる。
沈み込んだ日々は不幸ではないのだと思う。
むしろ、浮わついた明るさから離れ、深く思うことの多い、幸せな時代だったともいえるかもしれない。