『太陽諸島』 多和田葉子

 

三部作の最終巻であるが、旅はどこまでも続く、これからも。


消滅してしまったHirukoの生まれ故郷(太平洋に浮かぶ列島)には、いったい何が起こったのか。まずは、列島があったはずの場所を見たい。
そこで、Hirukoを中心にして、ヨーロッパ各地から集まった六人の仲間は、コペンハーゲンを出航して、船で東に向かって旅だったのだ。
だけど船は、コペンハーゲンから、そのまま東に向かい、バルト海に入る。待っているのは、どん詰まり。
太平洋に向かうには一番効率の悪い航海と思うが、なぜこんな方法を選んだのだろうか。
たぶん、そこに到達する、ということが、彼らの目標ではなかったのだろう。到着することを避けているのではないか、とさえ思う。


Hirukoはいう。
「かつて自分が生きていた場所が今どうなっているのか全く情報が入ってこなくなり、現在という時間から消えてしまっているせいで、落ち着いて現在を生きることが出来ない」
「生きていた場所」とは、地理的な場所だけではなく、言葉や、性格、自身の半生のあゆみであり、自分をとりまく社会の動きであり、歴史でもある。
だから、彼らの旅は、地図の上の場所から場所への移動とは違うのかもしれない。


冠詞のある世界とない世界のこと。単数・複数の区別のある世界とない世界のこと。
「わたし」「あなた」という言葉を三人称に変えてみると……、という話。
祖国、愛国者について。「祖国が正しくてまわりの国は敵だと考え続けていると、ある日、祖国が溶解し崩壊してしまう」という言葉にどきっとする。
同郷のふたりに、スサノオヒルコという名前が与えられた意味。
「港町なのに、遠くに行けるという気がしない。バルト海が池のように閉じた水に感じる」
という言葉と、
「池ではなく、テーブルだと考えたらどうですか(中略)そのテーブルを囲んで、たくさんの国々が会議を行っている」
という言葉が心に残る。


全ての会話は外に開かれた問いかけのようだ。答えをみつけたいと思うことが旅の扉のようだ。
この本は、旅のガイドかな。


(六人を含めて)謎めいた人々がぞろぞろ現れる。人というには、あまりに捉えどころがない。ふわふわして、自由で……鳥かな。鳥かもしれない。
「鳥が空を飛ぶ。その影が海面に落ちて島になる」という言葉は印象的だ。
鳥が飛ぶから島ができる。最初から島があるわけではなくて。さばさばと気持ちがいい。