『わたしたち』 落合恵子

 

「わたしたちは、十三歳になる一九五八年の四月に出会った。以来、濃淡はあっても、一時途切れることはあっても、つきあいはずっと続いてきた。」
「わたしたち」とは、容子、晶子、佐知子、美由紀の四人。
中学一年生のときの、臨海学校でのはじけるような笑顔から、物語は始まる。
この始まりの海に、彼女たちは、人生の節目節目に帰っていく。最後の場面は、二〇二一年で、七十六歳になっている。


育った家でも、長くて窮屈な中高の学校生活でも、大人になってからの職場や家庭でも、それぞれに言うに言われぬ事情を抱えているのは、それはもう、誰でもあたりまえのことだけれど、こうして四人並べてみるとその彩りの豊かさ、幅の広さに驚く。


なぜ、ここで足踏みしなければならないのか、自分のせいではまったくないというのに。
なぜ、声を殺して、黙っていなければならないのか、その必要はないのに。
そして、なぜ、と考えたことにまで、礫をぶつけられなければならないのは、ほんとうになぜなのだろう。
彼女たちがのりこえてきたもの、のりこえられなかったもの。社会のなかで少しずつかわってきたこと、かわれずにいること。
まだまだ課題は山のようだけれど……。


屈託なく笑う彼女たちの抱えたそれぞれのそれぞれなりの悩みもあまりに多様で、でも、彼女たちのどこかに、きっと私がいる。あるいは、私の知っている人が。これから出会うかもしれない人も。
ああ、だから、「わたしたち」は、四人の女性たちのことではない。「わたしたち」は、私たちのことだ。
言いたいことをあけすけに言い合っているようにみえて、そうではない。相手の生き方に対する敬意が見え隠れする。無言の信頼だろうか。
もし、別の書き方をしたら、うんと危なっかしく見えたかもしれない。そうならないのは、どんなにぺしゃんこになったとしても、友のぺしゃんこささえ、敬しているから。そんな気がする。
私の前でも後ろでもない、隣を歩くって、そういうことなのだろう。
老いていく2021年の海をみながら、こみあげてくるものがあるけれど、それ以上に、この海は、やはり気持ちがいい。


登場人物たちによって、英文とともに繰り返し引用されていた詩(?)が素敵だ。
「わたしの後ろを歩かないでください
 わたしはあなたを、リードすることはできないでしょうから
 わたしの前を歩かないでください
 わたしはあなたに、従うことはできないでしょうから
 わたしのすぐ隣を歩いてください。そして友だちでいてください」