『話すことがたくさんあるの…』 ジョン・マーズデン

 

中学三年生の「わたし」は、神経性の失語症で、ウェリントン女子学院の寮に入るまで病院に入院していた。
これは、「わたし」がこの学校にきた二月から七月まで、五カ月間の日記だ。


授業にも、寮生活にも、後ろ向きで、同室の少女たちとの接触も断ってしまっている「わたし」だけれど、興味がないわけではない。
同室の少女たちが何をしているのか、互いにどんなことを言い合うのか、よく見ているし、聞いている。彼女たちの印象も書き込まれている。
話せない「わたし」にとって、この日記は、唯一、外側に開いた窓のようだ。
それにしても、いったい、なぜ「わたし」は話せなくなってしまったのだろうか。
「冷たくて、暗くて、じめじめした場所へ落ちていくような気がする」
「そこには未来はない。過去があるだけ」
「そこはもっとも孤独になれる場所。そこにいくときは、ふつうの人の生活のなかに生きることをやめ……」
こんな言葉を日記に書かせてしまう、どんなことが嘗て彼女に起ったのだろう。
だんだんに、彼女と家族のことがわかってくる。
もし、話せるなら、「わたし」は、誰に一番最初に話しかけるだろう、それはどんな言葉だろう、と考える。その一方で、何も話さなくてもいい、とも思う。ちょっとだけ楽になってくれたら。


同室の八人の少女たちは、実に個性豊かで、毎日、色々な事件が起こる。
だけど、この賑やかな小さな社会の面々は、ひとりでいるときにはまったく思いがけない顔を見せる。
もしかしたら、あの子もこの子も、少し「わたし」に似たところがあるのかもしれない。
みんなから少し距離をおいている「わたし」だから、見えてくるものがあるみたい。
さらに、彼女の日記を読み続ける読者の私は、いつのまにか固定観念で登場人物たちを見ていたことに気づかされてびっくりする。
先日読んだ『オオカミの知と愛』の、オオカミの家族に、この八人(の役割や、そのために起る言動・事件)がよく似ていて、ちょっと微笑んでしまう。八人は一つの群れなのだ。たとえ一言もしゃべらなくても群れの一員で、ただの傍観者であるわけがない。よきにつけあしきにつけ。
五ヵ月のうちに、ゆるやかに「わたし」の日記が変わってきていることに気がつく。


物語の最後に、「わたし」の名前を呼ぶ声が聞こえて、はっとする。
おぼえるのが大変なくらい沢山の人物の名前が出てきたのに、「わたし」の名前だけが、今まで出てこなかった。それなのに、そのことに気がつかなかったなんて。
名前が、姿のない少女を生きた少女に変えたように感じた。