『幸いなるハリー』 イーディス・パールマン

 

ニ十篇の短編が収録された短篇集“Honeydew”は、ちょうど半分の十篇づつに分かれて、『蜜のように甘く』と、この本『幸いなるハリー』の二冊になった。


誰かの人生のなかのほんのわずかな時間や、誰かの顔にちらっと浮かぶ思いがけない表情などを、切り取って見せられる。見せられたこちらは、その前後の表情や事情(時にははるか遠くまで)を思い浮かべる。
物語に描かれる時間はけっして長くはないのだけれど、長編を読んだような充実した気持になる。
どの物語も、舞台はマサチューセッツ州ゴドルフィンという町が舞台だ。舞台になる場所や、人物は、物語をまたいでちらっと別の顔を見せてくれるのも楽しい。


『介護生活』は、自分の身内や、自分自身の決して遠くない将来のことに思いを馳せる。もしも自分がそうなったときには……と準備、覚悟しているつもり。そうはいっても、その準備や覚悟の外まさかの場所で、崩れていくものがある。大切なものが目の前で崩れていくのを何の手立てもなく眺める。わたしは、いったい何をこれまで積み上げてきたのかな、と思いながら。


『フィッシュウォーター』は、一見おとぎ話のようだけれど……。真実の物語は正確な物語とは限らないのだ。とはいっても、正確ではない真実を見分けるためには、きっと意識して「書かれなかった」ものを読み取る力が必要なのだろう。そういうことができる人にだけ開かれた物語もあるのだろう。「ぼく」がみつけた真実の物語はそういうことだ。それは、こちらが思っていたのとは違っていて、過去にも未来にも大きく手を広げている。


『金の白鳥』 見る必要のない物語を覗いてしまったら、黙っているしかない。きらきらしたものは、みんな見えるところにあって手を伸ばせばだれにでも届くけれど、もしかしたらまがい物かもしれない。足元の薄暗がりのなかにある柔らかいものはなんだろう。手を伸ばすことさえも拒否して、孤高に輝かに。


『幸いなるハリー』一通の手紙が届いてから、ほんの数日間の家族の物語を見守るのは、居間の隅にある醜い植物(観葉植物?)。みんなの要らないもの(コーヒー、マウスウォッシュ、葉巻の灰……)を引き受けて枯れずにいる植物に、私はだんだん人格を感じ始めている。


知っているけれど、決して語らない秘密がある。語らない理由も、伴う感情も、本当にさまざまだ。それでもあえて語らないことで、なんとかバランスを保っていられるものも、さまざまある。なんてあやふやな足場だろう、と思ったり、逆に、だから安心して足をのせていようか、と思ったり。
こういう短編を少しずつ読んでいるのは幸せ。