『わたしのバイソン』 ガヤ・ヴィズニウスキ

 

「バイソンを はじめて みたのは
 4さいの はるのひ」
「わたし」はママにだっこして、草原の向こうにいるバイソンをみた。
「わたし」は毎日、バイソンに会いにいき、少しずつ近づき、やがて、ずっと一緒にいたい友だちになった。
春になるとバイソンは、他のバイソンのところに帰っていく。
「ゆきが ふるころに なったら
 かならず あいに もどってくるよ」
と約束して。
寂しい夏を過ごした後、バイソンとともに過ごす冬が来る。
そうやって、「わたし」とバイソンは長い年月を一緒にすごしてきた。
やがて、ふたりとも年をとり……とうとういくら待ってもバイソンが帰ってこない冬が来る……


バイソンと「わたし」とが、ふたり、むつまじく過ごす毎年の冬のなんと明るいことか。温かいことか。
バイソンはもう帰ってこられないのだと知ったときの喪失感、空虚さ。
だけど、やがて「わたし」は、嘗てバイソンと過ごした美しい日々を思い出す。胸に、ひたひたと満ちてくる言葉たちは、懐かしい日々を取り戻させるようだ。
最後のの言葉がページの中から、膨らんで広がってくるよう。
そして、
「ここに いたんだね、
 わたしの バイソン」



「わたし」のママは、「わたし」を抱いて最初に現れた後ろ姿だけで、その後は消えてしまう。
森の中の一軒家なのだろうか。「わたし」の暮らしに、「わたし」以外の誰も登場しない。
「わたしは ちっちゃな バイソンの おんなのこ」
と言う「わたし」は、毛皮のようなものを身に着けている。
バイソンと「わたし」の生活には、ほかの誰も入る余地がないくらいに濃密だ。
だけど、思ってしまう。
こんなに睦まじい二人なのに、バイソンは、冬しか「わたし」のそばにいない。夏の間は、他のバイソンのところに戻ってしまうのだ。バイソンには、「わたし」と過ごすこの森の家の暮らしの外に、別の、よりバイソンらしい暮しがある。
そして、ある時、戻ってくるときになっても、戻らなかったバイソンのことを、理由も知らず(推し量りはして)そのまま受け入れるしかない「わたし」なのだ。


子どもの絵本に、こういう種類の「なぜ」と、その先の憶測を持ち込んでいいのか、と思うけれど、わたしは、この二人の平和に、少し不穏なイメージをもってしまう。
「他のバイソン」は、冬の間、姿を消すバイソンのことをどう思っているのだろう、と。