『アメリカの奴隷制を生きる フレデリック・ダグラス自伝』 フレデリック・ダグラス

 

著者はメリーランド州タルボット郡で、奴隷の子として生まれた。幼い頃に母親から離され、二十歳で脱走するまでの間に、幾人かの奴隷所有者の所有物にされた。残酷で暴力的な主人もいたし少しはましな主人もいた。
脱走後は、奴隷解放運動に尽力した。


奴隷たちに自分が「人間」であるということを思い出させないために、奴隷制というものが非常に賢くきめ細かく作られたシステムであることが、読めば読むほどにわかり、ぞっとする。
幼いうちに母親と子どもを引き離すこともそうだし……学ばせないということも。


著者が子どものころに出会った女主人はまだ奴隷を持ったことがなくて、優しい人だった。(その後、激変するのだが)
この女主人は彼にアルファベットと、いくつかの単語の綴り方を熱心に教えた。
彼女の夫がこれを知ったときに、これ以上教える事を彼女に禁じた。
黒人に読み方を教えることは違法だった。
「学ばせれば、世界で最良の黒人でも、ダメになる。……すぐに手に負えなくなり、主人にとって価値のないものになる。あいつにも、そりゃいいことじゃないどころか、毒になる。あいつは不満を抱いて、不幸になるだろう」
この言葉を聞いた著者は、これが黒人を奴隷にする白人の持つ力である事を理解したし、同時に奴隷であることから自由に向かう道があることを理解したのだ、という。
著者は、隠れてあらゆる機会を探し、長い時間をかけて、自力で読み書きを習得するのだ。
確かに読めることは素晴らしかった。彼の世界が開けていく様にどきどきする。
だけど、彼は苦しんだ。主人が言ったとおり、不幸になったと感じた。
「苦痛の瞬間、仲間の奴隷たちの愚かさを羨んだ。私は自分が畜生であればよかったのにと思ったものである」
だけど、裏返してみれば、より不幸なのは奴隷所有者の側だろうと思うのだ。相手の人権(人間らしさ)を奪うことで自分の人間らしさも手放しているのに、それに気がつかないのだから。
奴隷制は、奴隷だけでなく奴隷所有者の人間性までも奪う制度だ。


ここから、自分の主人は自分以外にいないのだ、いつか必ず自由になる、と著者は決心するに至るのだが、この時点で、すでに「主人」よりも彼は高みにいたのだ、と思う。
この自伝の白眉、と思う。
学ぶってどういうことなのだろう、人間であるってどういうことなのだろう。一つ一つ、苦しみながら、確かめながら、自分のものにしていった著者の言葉を噛みしめる。