『遠く不思議な夏』 斉藤洋

 

 

蒸気機関車が客車をひっぱっていたころ。
上野から普通列車で二時間。駅を降りて、バスで1時間ほどいったところに、「わたし」の母の実家はあった。
祖父母と伯父伯母。二人の年上の従姉兄がいるこの家で、「わたし」は、小学校を卒業するまでの毎夏を過ごした。
広がる田んぼ。雑木林に覆われた神社の杜。そして、母の実家は、縁側の広い、懐かしい風情の農家だ。
夏ごとに「わたし」が体験するのは、現実のすぐ隣にあるような、ないような、ちょっと不思議な出来事だ。

周囲の誰にも見えないのに、自分だけが見えてしまう動物、亡くなった人や、座敷わらしなどのこと。
ないはずの風景が、自分の前に広がっている事。迷うはずのない場所であるのに、行けども行けども目的の場所に出られない事。
そういう不思議が、日本の田舎の風景に溶け込んでいる。
不思議で、少しばかり怖い田舎の夏。
おじいちゃんの語る民話風ほら話までも、不思議な体験に混ざり混んだ、懐かしい田舎の夏。


この村には代々、二十戸の本家があり、「わたし」の「母の実家」は分家である。
そして、夏ごとの十二の不思議物語の裏側で、ごくゆっくりと本家が没落していく様子も描き出していたのだ、と後になって気がつく。


まだ「わたし」が小さかったとき、本家と分家の関係を伯父さんがいろいろ教えてくれて、「本家が没落したら」という話までもして聞かせた。「そのとき、気のせいか、わたしは伯父がにっと笑ったような気がした」
また、もっとあとになって、なんでも本家が先であるはずのものが、分家の「母の実家」に先にまわってきたとき、「そのとき、母の目が笑っているように見えた」
牧歌的な日本の農村風景がひんやりと凍るように思える。伯父・母の笑みはなんなのだろう。
素朴な田舎人が素朴な付き合いを続ける田舎で、この人たちが長い年月、知らん顔して見守ってきたのはいったい何だったのだろう。


子どもにしか見えないものがあったように、大人にしか見えないものも、この村にはあったのだ。
そして、私は、大人にしか見えないものの方が、本当はこわかった……