K町の奇妙なおとなたち

K町の奇妙なおとなたち

K町の奇妙なおとなたち


昭和の半ばごろの都会からそれほど遠くない小さな田舎町の光景に、懐かしさでいっぱいになってしまう。
「わたし」は、この町で大きくなったのだ。
父と母の間にできた一人っ子で、友だちと駆け回るより、きっと一人でいる時間の方が多かったのだろう、好きだったのだろう。
子どもたちよりも、大人たちの中で育った子どもだったのだろう。


大人と一緒にいる子どもは、「おまけ」みたいな感じで、
大人の間では、その時々の都合により、子どもは、そこに存在するものとみなされたり、存在しないものとみなされたり、するものだ。
そんなふうだから、子どもは、大人たちの中で、時々なんだかわからない体験をして、
おかしいな、と思ったり、違うんじゃないかな、と思ったり、なぜだろうと思ったりもする。
でも、「なぜ?」とは聞かない。聞いても答えてくれないだろう。
だって、大人は、そういうとき、子どもはそこにいないもの、にしているのだもの。
だから、子どもは黙っている。
それに、そんなに長く「なぜだろう、なぜだろう」と考えこんでいるひまもない。
あとからあとから、新しい不思議なことや、新しい疑問などに出会って、忙しいのだ。
うん、そういうふうだった。と自分の子どものころのことを思い出している。
大人になってみると、そんなにおかしなことに出会わなくなる。
大人と大人の関係は、そこにいるのにいないものにされることはまずない。
おかしなことは、聞くまでもなく、その場で大抵説明される。
そして、経験から、説明できないような不思議なことは、そんなに身のまわりにはないのだ、と思うようになっている。
・・・考えてみればつまらない話である。


わたしは、この本のなかで、子どもに戻った。
大人の近くにいつもいる子ども。だけど、都合よく、そこにいないものとみなされてしまう子ども。
そういう子どもの前には、不思議たちは安心して、姿を見せる。
私は、時々、訊きたくなる。大人の自分に戻って、説明してほしくなる。
たとえば、まれやまさんはなぜ「わたし」にいつも10円くれたんだろう、とか、
いつも「先生」と呼ばれるおとうさんが、なぜ「アニキ」になるのだろう、おとうさんはどういう人なのだろう、とか、
刺青をしていたおじさんや、ベティさんはどんな仕事をしている人だったんだろう、とか、
おかあさんは、なぜ時々おばさんに「わたし」を預けるのだろうとか・・・


あらら、訊きたくなることを書きならべてみたら、なんだかつまらないことばかり。
こういうことは「大きくなったらわかること」ばかりじゃないか。


逆に、訊かなくてもいいなあ、と思うのは、本当に不思議なこと。
たぬきばやしの正体や、商店街のもう一つのお葬式や、電話ボックスにしゃがみこんだシズコさんって何なのかな、とか・・・
(だって、誰に、どうやって訊いたらいいのだろう)


子どものころって、
不思議がいっぱいあって、不思議だらけなのが、当たり前の毎日だったんだなあ、と思いだす。
その不思議は、大きくなったら分かることや、子どもは知らない方がいい(と大人が思っている)ことなど。
そして、そこに、本当の不思議・・・大人になってもきっと時々思い出して首をかしげるだろうこと、
(わたしはそれを本当に見たのか、あれはいったい何だったのだろう、と)
そういうことが渾然一体混ざり合って独特の空気に包まれていたのだった。
そんな子ども時代にタイムスリップしたような気持ちで、奇妙でなんとなく懐かしいK町の大人たちを振り返る。
どちらにしても、あのころ、大人たちと子どもたちは、今よりもずっと近いところにいたような気がする。