『清兵衛と瓢箪・小僧の神様』 志賀直哉

 

 

志賀直哉、初期から中期にかけての作品を集めた珠玉の短篇集とのこと。


もっとも好きなのが『城の崎にて』と『焚火』。
『城の崎にて』は怪我の後の養生のために、しばらくの間、城の崎に滞在したときのこと。
『焚火』は妻を伴って赤城山中の宿に滞在したときのこと。
どちらも、豊かな自然のなかで、時間がゆったりと流れている。
「一人が起って窓の障子を開けると、雨はいつかあがって、新緑の香を含んだ気持ちのいい山の冷え冷えとした空気が流れ込んできた」
「先刻から小鳥島で梟が鳴いていた。「五郎助」と言って、しばらく間をおいて、「奉公」と鳴く」
だけど、静かな日々は、死を隠している。見たもののなかに、誰かの記憶のなかに。はっとするけれど、同時に腹の据わった覚悟のようなものも感じて、むしろ、いっそう今の山里での充実した時間が愛おしく思えてくる。
ことに『焚火』がいいな。わたしも、梟の声を聴いたら、きっと(物語を思い出して)「五郎助、奉公」と聞きなすだろう、と思う。


『正義派』『十一月三日午後の事』や『小僧の神様』も心に残った。
人がきいたら、なぜそこで戸惑うかな、と思うようなところに戸惑う心が愛おしい。と言ったら、より一層顔をそむけられそうだけれど。
彼らのちらっと見せた表情を覚えておきたい。いずれも、擦れたような大人たちが、自分も気がつかないまま胸のうち隠し持っていたもの。思いがけなさがよいな。


初期のものでは、『母の死と新しい母』が心に残っている。
早くに若い母から取り上げられて、祖父母に慈しんで育てられた少年の、父母を見る目は、子というより小舅のようだ。
十三の息子が、懐妊した母に(旅行先からの)土産を用意して「褒美をやる」つもりだったことや、その死後百日もしないうちに、新しい母の登場を楽しみに待つこと、その言い草の大人びたところを祖父母に感心されていい気になっている様子など……正直な文章が、悲しくなってしまう。
成熟した息子は、当時を苦い思いで振り返っているのだろう。親がいるのに(もしかしたら)親のない子のようになっていたこと、寂しさなども。


『網走まで』『范の犯罪』は、ミステリとしても読めるのでは、と思った。
『網走まで』最後の一文にどきどきする。宛先をさまざま想像してしまった。
『范の犯罪』……あの探偵だったら、この探偵だったら、彼の独白をどう聞くだろうか、と思った。