『ノーホエア・マン』 アレクサンダル・ヘモン

 

ノーホエア・マン

ノーホエア・マン

 

 

書かれているのは、ヨーゼフ・プロ―ネクという、サラエボ出身の青年の半生だ。
彼は、ユーゴ紛争の直前にアメリカ、シカゴに渡り、紛争のために故郷に帰れなくなった。
プロ―ネクの半生が、時期ごとに、七つ(六つ)の章で書かれているが、曲者なのは、その書き方だ。いずれも、語り手「私」の目に映ったプローネクの姿、として描き出されている。しかし、この「私」は、章ごとに違う人物なのだ。プロ―ネクのその時期のことをよく知っている人物であるけれど、それぞれの「私」によって見方が異なり、プローネクの印象は、章ごとに違ってくる。
ということは、章を追うごとにこの青年が重層的に見えてくるということである。
その一方で、あくまでも他人の視線の先にいる彼でしかなくて、どこまで行っても、これ以上は彼に近づけないのだな、という境界線のようなものを感じる。少し歯がゆい思いをする。たぶん、この歯がゆさが、読後の癖のある余韻(?)に繋がるのだろう……

 
プロ―ネクのまわりには、数えきれないくらいの移民たち、被差別民たちがいる。本人、友だち、恋人、その父、その祖父……
ユーゴ紛争によって、アメリカと故郷に隔てられた親友同士。
ウクライナからアメリカに移住し、市民権を得るために好きでもない女を妊娠させた男。
アウシュビッツの生き残りであることを隠して(理不尽にも隠さなくてはならなくて)原子力研究所に職を得たユダヤ人科学者。
生物に対する放射能の影響を調べる、という秘密の目的のために長いあいだ汚染された川の畔で生活させられていたアフリカ系アメリカ人のコミュニティ。
プローネクは、累々と現れるこれらの人々の一人だ。

 
シカゴでの彼の暮らしはしんどかった。移民であり、英語もままならず、まともな仕事にもありつけない。無関心な人々のなかで、「一人ぼっちのあいつ」でしかなかった彼。
「ノーホエア・マン」はビートルズの曲で、日本語では(検索したら)「一人ぼっちのあいつ」と訳されていた。
(プロ―ネクは故郷で若いときにビートルズに傾倒し、親友と、ほかの仲間も交えて、バンドを組んでいた)


物語最初のほうで、ある語り手はプロ―ネクの行く末について、こう書いている。
「……その後、その地で永遠に不幸に暮らすことになる」
この言葉が、この本を読んでいる間、ずっと心を離れなかった。ずっとひっかかっていた。
だけど、誰が見ても「ひとりぼっちのあいつ」だったとき、彼は本当にそこまで不幸だっただろうか。
なんとかやっていたじゃないか。
だけど……。
「不幸」は、どこにあったのだろう。あるいは、どこでみつけたのだろう。どこで染み込んできたのだろう。
やりきれない思いがこみあげてくる。