童話作家、富安陽子さんのエッセイ集。
両親の両実家のこと、両親のこと、そして、自分のこども時代の事や、今の家族のこと、生活のことなどを語る。
エッセイであるが、富安陽子さんの「童話」を読んでいるような楽しさだった。生活するって、イライラしたり、情けなかったりすることも含めて、こんなにも不思議の連続であったかね、と思うのだった。
たとえば「キーパーソン」の章の書き出し。
「気がついたら、両方の肩にひとりずつ、おじいちゃんがのっかっていた」
何のことか、と言えば、夫の父と自分の父両方の介護をいっぺんに引き受けなければならなくなってしまったということなのだ。
どんなに大変なことなのか、想像すればくらくらしてしまうが、文章はさばさばと明るいし、読んでいる私は、思わず笑ってしまう。笑いごとではないけど、やっぱりおかしいのだ。
「宿題」の章では、「宿題をさぼりつづけていたわたしはいまになって、毎日毎日、原稿を書くはめになってしまった」との言葉に、ああ、あんなに楽しい物語を次から次に発表する作家さんが、なんともったいないことを言うか、と思うが、一方……
「カレンダー」の章。絵が得意なおとうさんは、祖父亡きあとの一家の生活を支えていくために芸大への進学を断念する。「結局、父は、絵を描くことを職業にはできなかったが、おかげで、ずっと絵を描くことを十分楽しんだと思う」との言葉に、なるほど、と思う。自分の好きなこと、得意なこと、生かす道は一通りではないのだなあ、と思う。
「ファンレター」の章。
夏のおわりに、書店で三人の小学生が、富安陽子さんの『キツネ山の夏休み』を買おうとしているのを見かける。
三人は、読書感想文を書くために「あとがきだけ、読んだらええやん!」と。「あとがき」のある『キツネ山の夏休み』一冊を回し読みするつもりだった。
「三人のうちの一人ぐらいは、あの物語をちゃんとラストまで読み切ってくれたのだろうか」との問いかけに、私は、きっときっと!と思う。
ばらっと開いた『キツネ山の夏休み』を、いつのまにか夢中になって読んでいる子どもの姿が、私には目に見えるようだ。
私が(わが子とともに)初めて読んだ富安陽子さんの本が『キツネ山の夏休み』だったことを思い出す。その後、富安陽子という作者名は、おもしろさの太鼓判になった。
くすくす笑いながら読んだこの本には、「右手の肖像」「家族の戦争」「あとがきにかえて」など、戦争によって失われた人たちの影が見え隠れしている。遺された人たちが懸命になって生きてきた道筋も。
だから、この今、笑って過ごす日々を手放さないことは、きっと亡くなった人たちの供養でもあると思うのだ。
「右手の肖像」の章の、癌で亡くなったお母さんが遺した言葉「もう十分生きました。ほんとうにおもしろい人生だったわ」が心に残る。
見事だなあ、と思う。そんな最期、望んでもなかなかできないかもしれないけど、心に留めておきたい言葉になった。