理解できないものを見たとき、信じられないようなことが目の前で進行しているのを感じたとき、呆然、というより、いつのまにか、自分がへらっと笑っていることに気がつくことがある。
シュールな物語、不条理な物語を読んでいるとき、もしかしたら、わたしは、そんな顔をしているのではないだろうか。
笑っている……
これは、ユーモア、なのだろうか。
エトガル・ケレットの短編集。
特筆すべきは表題作『銀河の果ての落とし穴』
ふたりの人物のメールのやりとりだけで描きだした作品なのだが、一つの作品が六つに寸断されている。寸断された物語の間に他の作品がひとつずつ挟まっているのだ。
すごく短い一組のメール(問い合わせとその返信)を一章(?)として、そのあとすぐ「つづく」になってしまうような感じ。
最初の一組は、誠実で丁寧なやり取り、と思う。それが、二つめから、ちょっとずつ雰囲気が変わってくる……こうして、どこまでいくのかというと……
『タブラ・ラーサ』は、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を彷彿とさせる、と思いながら読んでいたのだが・・・
短い物語のなかで、信じていたものがくるりくるりとひっくり返される。
読後に感じるなんとも言えない思いは、『銀河の果ての落とし穴』に共通するかな。
(おそらく作者自身につながる)ホロコーストの犠牲者たちの記憶が、作品の下にはある。
だけど、それは、一筋縄ではいかない。
「ホロコーストをもたらす」ものは、それと知らずに近寄ってくる。あるいは自分自身が「それ」だということに気がつかずに、反対の側にいるつもりだったりもする。
そうしたことに、気づかされるから、ぞっとするし、苦い、と感じるのだろう。
子どもたちが出てくる話も多い。
子どもたちは大人が感じているよりずっと賢い。おまけに自分の武器をよく知っていることに舌を巻く。その無邪気な笑顔ったら。
大人は動きが緩慢、考えることもゆっくりだし、思いがけず単純だ。と思い知らされる。
でも、それをわかっていても抗えない。たとえば、『とっとと飛べ』の「たしかにかわいい」との言葉に、つい頷いてしまう。
訳者あとがきのなかで紹介されていたケレットの言葉がしみてくる。ユーモアについての。
「ユーモアとは耐えがたい現実とつきあう手段なのです。抗議する手段でもあり、ときには人間の尊厳を守る手段でもあります」
ブラックな物語もたくさん読んだし、救いようのなさに言葉を失ったりもした。
それなのに、読後、そこはかとない素朴な優しさのようなものを感じる。そして、なんの清涼剤が効いたのか、やはり、そこはかとないのだけれど、清々しさも感じている。